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がん 「難民」になって:上
終のすみか入居の矢先、手術
師走の東京を彩るイルミネーション「東京ミレナリオ」。02年12月、千葉県佐倉市に住んでいた伊東治子さん(72)は、夫昭幸さん(74)と2人、丸の内から有楽町に続く夜景を楽しんでいた。治子さんは途中で、トイレを我慢できなくなり、やっとの思いで雑踏を抜け出した。だが、用を足しても残尿感がある。「なぜ……」。頻尿がこのころから始まった。 翌03年2月、千葉大病院(千葉市)の泌尿器科を受診した。検査の結果、「膀胱(ぼうこう)がんの疑い」と告げられた。 3月に、千葉県柏市の有料老人ホームに夫婦そろって越すことが決まっていた。豪華な内装が自慢で、終(つい)のすみかにと約6600万円を支払っていた。そのため、引っ越しを終えた4月に手術。尿道から膀胱に内視鏡を入れ、電気メスでがんを切除した。 だが、がんは子宮など周りの臓器にも広がっていた。「5年生存率は25〜30%ほどです」と医師に告げられ、再発を覚悟した。 「考えても治るものじゃない。あとは病院に任せよう」。気を取り直し、6月に改めて開腹手術を受けた。膀胱をはじめ子宮や卵巣もすべて摘出し、人工膀胱を設けた。 翌月から化学療法も始まった。4種類の抗がん剤(メソトレキセート、ビンブラスチン、アドリアマイシン、シスプラチン)を点滴する、M―VACと呼ばれる治療法。しかし、脱毛や吐き気などの副作用に加え、ぜんそくの発作にも襲われるようになり、治療を続けられなくなった。 呼吸器科の医師に相談すると、「老人ホームのじゅうたんが原因ではないか」という。施設側に改装を求めたが拒否されたため、仕方なくホームを出ることにした。 横浜市内のマンションに引っ越したのは、04年10月。ホームからの返金は5千万円足らずだったが、ぜんそくはぴたりと治まった。膀胱がんの経過観察は、国立がんセンター中央病院(東京都中央区)で受けることにした。 しかし、この転院をきっかけに、治子さんは後にいくつもの病院を転々とする「がん難民」になったのだった。 腹痛抱えたまま病院たらい回しに
伊東治子さんは03年夏、膀胱がんの全摘手術後に抗がん剤治療を始めた。だが、ぜんそくのため中止し、千葉県の老人ホームから横浜市に転居した。横浜市に越して約1カ月後の04年11月。少し前から便秘になっていた治子さんを突然、下腹部の激痛が襲った。自宅近くのクリニックでもらった痛み止めを飲むと治まったが、数日後に再び、歩けないほどの痛みに見舞われた。 膀胱がんの経過観察のため通院していた国立がんセンター中央病院(東京都中央区)に、タクシーで駆け込んだ。しかし、この日は日曜で、当直についていた産婦人科医に「平日の日中、泌尿器科の主治医に診てもらってください」と言われ、痛み止めを処方されただけだった。 がんセンターで主治医の診察を受けることができたのは2週間後。X線撮影の結果、腸の内容物が通らなくなる「腸閉塞(へいそく)」は起きていないと診断され、様子を見ることになった。 その後もたびたび腹痛は起きた。年が明けた05年1月には、近所の総合病院の救急外来に1泊入院。CT(コンピューター断層撮影)検査を受け、偽(ぎ)イレウス(腸閉塞に近い状態)と診断された。がんセンターに通院していると医師に伝えると、「それなら紹介状を書くので、がんセンターに」と言われた。 紹介状とCT写真を携えて、がんセンターの主治医の元に戻った。すると今度は「腸閉塞なら近所の病院で治療して」と言われた。 がんセンターは、がん専門の病院だからだった。膀胱がんの開腹手術の後遺症で腸が癒着し、閉塞が生じている可能性もあったが、その手術をがんセンターへ移る前の病院で受けていたことも、主治医を治療に消極的にさせた。 「がんセンターには見捨てられた」。そう受け止めた治子さんは2月下旬、自宅近くの総合病院を再び受診し、そこに入院した。 腸閉塞の治療が始まった。鼻から腸に挿入した管で腸液やガスを抜き、腸内の圧力を下げる。それでも、便はほとんど出ない。食事の五分がゆもほとんど食べられず、45キロあった体重が、1カ月の入院で35キロまで減った。 「このままでは妻の命にかかわる」。夫の昭幸さんは、ほかの病院を探し始めた。 (文・岡崎明子)
※伊東昭幸さんから頂いた投書を基に取材しました。 |
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がん 「難民」になって:下
転院、手術も効果なし…がん再発
横浜市の伊東治子さん(72)は膀胱(ぼうこう)がんの手術後、腸閉塞(へいそく)の症状が見られた。国立がんセンターに治療を断られて05年2月、横浜市の病院に入院したが、日に日に弱っていった。治子さんを転院させようと、夫の昭幸さん(74)はインターネットや本で情報を集めた。選んだのが、消化器の手術で実績がある東京都内の病院。横浜の病院に「セカンドオピニオンを取りたい」と言い、紹介状と五十数枚のX線写真を携えて、この都内の病院を訪ねた。 対応したのは消化器外科部長だった。X線写真には目を通さず、治子さんを診察して「これなら切れるじゃない」と言った。 横浜の病院は「開腹手術をすると新たな腸の癒着をつくり、再び腸閉塞になる可能性を高める」として手術を避けていた。しかし部長は「手術は可能」と判断した。治子さんと昭幸さんは「手術の詳しい説明がない」と不満を感じていたが、それでもここで手術を受けようと決めた。 3月に入院し、腸のバイパス手術を受けた。ところが、手術後も便はほとんど出なかった。 便意はあるため、初めは点滴台を引きながらトイレに行った。やがて歩くのがつらくなり、ベッドの脇にポータブル便器を置き、1日に何度も試みた。それでも、細い便がわずかに出るだけだった。 手術から40日過ぎても状態は変わらない。肛門(こうもん)から指診すると、人さし指が入らないほど直腸が狭くなっていた。 病院は、2年前に膀胱がんの手術をした千葉大病院から資料を取り寄せ、改めて精密検査をした。その結果、再発したがんが直腸に浸潤していることがわかった。 一方、便が出ないのは、大腸のうち直腸の上にある結腸部分で、内容物を運ぶための「ぜん動運動」がうまく生じていないためだと診断された。このため、5月下旬に治子さんは再び手術を受け、今度は人工肛門をつくった。 部長は振り返る。「結論から言えば、手術は人工肛門をつくる1度だけで済んだかもしれない。だが、患者さんには、まずバイパス手術をして、だめなら人工肛門をつくると、初めに説明した。がんの再発を見落としたのは、前の病院の責任でしょう。我々は腸閉塞の手術ということで受け入れたのですから」 治療法求め手探り、夫は介護疲れ
膀胱がんの手術後、腸閉塞に苦しんだ伊東治子さんは05年春、東京都内の病院に転院して手術を受けた。だが改善せず、再手術を受けて人工肛門に。がんの再発も見つかった。人工肛門の手術から約2週間後の6月、治子さんは都内の病院を退院した。再発したがんが直腸など骨盤内の臓器に見つかっていたが、「あとは専門の病院で診てもらって下さい」と医師に言われた。 以前に治療を断られた国立がんセンターには行く気がせず、神奈川県立がんセンターの泌尿器科を受診した。 医師からは、手術や抗がん剤治療をする時期はすでに過ぎていると、緩和ケア病棟のパンフレットを渡された。しかし治子さんは「治すには手遅れでも、緩和ケア病棟に入るほどではない」と断った。がんの進行を遅らせる治療を受け、あと2〜3年は生きたい、と思った。 とはいえ、受け入れてもらえる病院のあてはない。途方に暮れていると、知人から「保険のきかない自費診療だけど、血管内治療という方法がある」と教えられた。 もものつけ根から入れたカテーテルを通じ、がん細胞に栄養を送る新生血管を閉じる薬を入れる、という。学界で広く効果が認められている治療ではないが、横浜市内のクリニックが1回30万円強で実施していた。 計3回、通院して治療を受けた。その後、先端装置のPET―CTで検査したが、効果ははっきりしなかった。 夏ごろ、通院がつらくなってきたのでクリニックに相談すると、東京・門前仲町の別のクリニックを紹介された。医師が週1回、看護師が週2回往診に来て、国内では未承認の抗がん剤や栄養剤の点滴を受けるようになった。 治子さんは食が進まなかった。夫の昭幸さんがデパートで買ってくる総菜も口にできず、体重は30キロにまで減った。昭幸さんも、慣れない家事と治子さんの元の肛門から漏れる便の処理、人工膀胱と人工肛門の袋の交換などに追われた。ホームヘルパーを週2回頼んではいたが、11月ごろには疲れ果て、熟睡できなくなっていた。 「もう限界だ」。そんな昭幸さんを見かねて、往診の看護師が言った。「静岡の沼津にある病院に行ってみませんか」。昭幸さんは、一も二もなく、うなずいた。 大切なのは医師の誠実さ
膀胱がんが再発した横浜市の伊東治子さんは病院を転々とした末、自宅で夫・昭幸さんの介護を受けた。だが2人とも体力的に限界を感じ、再び入院することにした。05年11月、治子さんは静岡県沼津市内にある90床ほどの病院に入院した。 ここでは、日本では未承認のサリドマイドと消炎鎮痛剤のセレコキシブに、抗がん剤を併用する独自の治療を行っていた。サリドマイドは骨髄腫への効果が海外で立証されている薬だが、この併用療法の効果ははっきりしていない。ただ、病院側は「がん患者の生活の質を改善する効果がある」(院長)といい、他に治療法がなくなった患者が、各地から集まっていた。 治子さんの場合はまず、栄養状態を改善するため、アルブミンが点滴された。また、人工肛門(こうもん)は出口が癒着していたため、メスで切って治療した。これでやっと便が出るようになり、元の肛門からの漏れも徐々になくなった。 体力が回復してきたところで、抗がん剤ジェムザールを使う併用治療が始まった。以来5カ月。直腸など骨盤内の臓器に再発したがんの進行は止まっていないが、入院当初ほぼ寝たきりだったのが一時は歩行器を使って歩く訓練ができるまでになり、食事も自分で取れるようになった。 ただ、いずれの薬にも公的医療保険は適用されないため、病院に支払う医療費は、差額ベッド代も含めると毎月50万円近くになる。 昭幸さんは週2日、在来線を乗り継ぎ、約2時間かけて病院を訪れる。2人に子どもはいない。親類とも疎遠で、お互いが唯一の家族だ。 横浜の自宅近くの病院に移ろうかとも、治子さんは思う。だが、今の病院ほど面倒をみてくれるかと考えると、踏み出せない。「ここは看護師が親切で、先生も優しい」と治子さんは話す。 千葉大病院で膀胱がんの手術を受けて以来、治子さんがかかった病院は六つ、クリニックは三つに上った。 「患者にとって大切なのは、病院が有名かどうかではなく、医師が誠実かどうか。誠実なら、たとえ良くない結果になったとしても、納得して治療が受けられる」 夫妻はそう口をそろえる。 (文・岡崎明子)
※伊東昭幸さんから頂いた投書を基に取材しました。 |
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情報編 がんと認知症
治療方針は第三者の立ち会いで
一方、生活習慣の欧米化などでがんで亡くなる人も増えていて、05年は過去最多の32万6千人を記録。国民の3人に1人ががんで亡くなる時代になった。政府はがん対策に乗り出しているが、「いずれは2人に1人ががんで亡くなる」との指摘もある。 こうした中、「患者を生きる 認知症を抱えて」で紹介した岩手県の菅原東一さん(62)の両親のように、認知症の高齢者にがんが見つかるケースも増えるだろう。本人の意思がはっきりしない場合の治療方針の決め方など、新たな課題も生じてくる。 手術や抗がん剤、放射線治療など、がんの治療は患者の体に大きな負荷をかけ、治療後の「生活の質」に著しい影響を及ぼしかねない。こうした治療行為を家族の同意だけで進めていいのかどうか。菅原さんは「自分自身のがんの治療より、両親の治療方針を決めなくてはならなかったことの方が大変だった」と振り返っている。 日本ホスピス緩和ケア協会会長で「ケアタウン小平クリニック」(東京都小平市)の山崎章郎院長は「治療方針を決める際などは、医師や家族だけでなく、医療や倫理・法律の知識がある第三者が立ち会い、判断を手助けできるような制度を構築しなくてはならない」と話す。 治療方針の決め方も、認知症のがん患者とそれ以外のがん患者とでは、おのずと異なってくるケースもある。 認知症に詳しい鳥羽研二・杏林大教授(高齢医学)によると、中程度以上に認知症が進んだ人の余命は2〜3年程度のことが多いという。「がんによる余命の長さや、その治療を受けることで改善される『生活の質』などを総体的に判断し、治療方針を決めるべきだ」と語る。 また、末期がんで治療法が限られている患者は「自宅や特別養護老人ホームなどで暮らし、そこを在宅医が訪ねて痛みを緩和するなどしつつ、看取(みと)るのがいい」と山崎院長。入退院などで頻繁に生活環境を変えると認知症を悪化させる場合もあるため、なじんだ環境で最期を迎える方が望ましいという。 ●記者のひとこと 現在、要介護認定を受けている人の2人に1人は認知症の影響があるといわれている。高齢化がさらに進めば、菅原さんの両親のようなケースは決して他人事ではなくなるだろう。終末期の延命医療のあり方が問題になったが、自分が認知症になったときのこともあらかじめ家族と話し合い、がんなどの治療方法を決めておくことが必要になってくるのかもしれない。 (文・島津洋一郎)
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がん 認知症を抱えて:上
手術から3年、自分に続き両親も
「今日は、みなさんが使っている健康食品について話をしましょうか」5月27日、盛岡市にある岩手県の複合施設「アイーナ」会議室。菅原東一さん(62)の提案で、がん患者会「かたくりの会」の会員たちが意見を交わした。 「私はゴマでできた製品を使っています。元気が出てきた」「私は健康食品は使わず、普通の食事で栄養バランスに気をつけています」 約20人が集まった土曜の午後の例会は、夕方まで続いた。 「かたくりの会」は、がんの種類を問わない患者会だ。盛岡市を中心に、県内各地の患者と家族約200人が集まる。毎月の例会では、お互いの体験や最新の医療情報について話し合ったり、識者の講演を聴いたりしている。 会が発足して十数年。菅原さんは4代目の会長だ。就任してから、8年になる。 石鳥谷(いしどりや)町(現花巻市)で同居していた両親が、いずれもがんだった。98年、父に腎臓がんが、00年に母に子宮頸(けい)がんが見つかった。しかも、2人ともアルツハイマー病による認知症を患っていた。 徘徊(はいかい)があったため、がんの治療で入院した病院では、夜間の付き添いを求められた。当時、菅原さんは県職員、妻の陽子さん(58)は保育士として共働きしていたが、仕事後、交代で病室に泊まり込んだ。菅原さんは振り返る。 「肉体的にも精神的にもきつかった。何より大変だったのは、意思のはっきりしない本人に代わって、治療法など命にかかわる選択をしなければいけないことだった」 だが結局、父も母も認知症が妨げになって満足な治療は受けられなかった。母のときには病院から退院を迫られたが行き場がなく、受け入れ先を探し回って奔走した。 自宅では母を世話できない事情があった。 両親のがん以前に、菅原さん自身が腎臓がんで手術を受けていた。もし再発したら、一家の家計は陽子さんが支えるしかない。3人の子どもは大学生と高校生。母の介護のために陽子さんが仕事を辞めるわけにはいかなかった。 菅原さんが腎臓がんと診断され、手術を受けたのは95年夏。それが、がんとの長い付き合いの始まりだった。 7人家族の大黒柱 もし再発したら
岩手県の菅原東一さんは、県内のがん患者会「かたくりの会」の会長だ。がんとのかかわりは11年前、自身の腎臓がんが始まりだった。95年春。ある朝、トイレに入った菅原さんは、自分の尿が茶褐色になっていることに気づいた。 「膀胱(ぼうこう)か腎臓に異常があるのでは……。ひょっとすると、がんかもしれない」 菅原さんは当時、畜産行政専門の県職員。獣医師の資格も持っていたため、すぐにピンときた。 だが、「もしがんを宣告されたら」と考えると、病院に行く決心がつかなかった。その間、尿の異状を妻の陽子さんに知られまいと、いつもはいていた白い下着をグレーに変え、理由を聞かれてもしらを切った。 7月ごろになると尿の色が赤みを増し、やがて血そのものの色になってきた。「これは、まずい」。がん治療に実績のある盛岡市内の病院に、あわてて検査を申し込んだ。 検査日を待っていた8月中旬。左脇腹の激痛に襲われ、自宅のある石鳥谷町(現花巻市)の病院に駆け込んだ。そのまま入院。検査の結果、左の腎臓の「腎盂(じんう)」と呼ばれる尿を集める部分に、複数のがんがあった。ただ、医師からは「いま腎臓を摘出すれば治る」と言われた。 8月22日に手術。左の腎臓と尿管をすべて切除した。10月には退院し、職場にも復帰できた。 がんの告知に動揺したのは、菅原さんよりもむしろ妻の陽子さんだった。 3人の子どもは当時は長女が大学生。次女と長男が高校生。しかも、娘2人は盛岡市内に下宿しながら私立に通っていて、学費と仕送りの負担は大きかった。子どもたちへの出費で、一家には貯金もほとんどなかった。 同居していた菅原さんの両親は農業を営み、リンゴやコメを作っていたが、現金収入はごくわずかだった。 保育士をしていた陽子さんは、7人家族の家計を菅原さんの給料なしではとても賄えないと思っていた。 医師には「がんが再発しないかどうか、5年間は様子を見ないといけない」と教えられていた。陽子さんは、不安をぬぐい切れなかった。 「もし再発したら、家族はどうなってしまうのか」 (文・島津洋一郎)
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がん 認知症を抱えて:下
末期の父、入院を機に徘徊
岩手県の菅原東一さん(62)は95年夏、腎臓がんの手術を受けた。10月に職場復帰したが、7人家族の大黒柱だけに、妻は再発への不安をぬぐえなかった。同居していた父の富男さんに物忘れなどが目立つようになったのは、97年だった。 80歳を過ぎてもリンゴやコメづくりを続けていた富男さんは、30年ほど前までは農業のかたわら炭の販売も手がけていた。その記憶がよみがえって現実と区別がつかなくなるのだろうか。「明日の朝はお客の所に行かないと」などと言い出したり、母と一緒に出かけたのを忘れて1人で家に戻ってきたりした。 翌98年の正月が明けると、コホコホと力のないせきが出るようになった。1カ月たっても治らず、体がむくんできた。気になった菅原さんは2月、自分が腎臓がんの手術を受けた石鳥谷(いしどりや)町(現花巻市)の病院に父を連れていった。 腎臓がんだった。すでに末期で肺にも転移し、肺の周りの胸膜腔(きょうまくくう)には水がたまっていた。「自分も腎臓がんをやったのに、なぜもっと早く気づいてやれなかったか」。菅原さんは自らを責めた。 手術で腎臓を摘出後、抗がん作用を期待してインターフェロンを打ちながら余命を延ばすか、何も治療は行わないか。医師からは、二つの選択肢が示された。 ところが、入院という環境の変化のせいか、直後から富男さんは徘徊(はいかい)などを繰り返すようになった。朝から夜まで田畑のことを口にし、夜中に出ていこうとする。そこで、落ち着くまで入院させて様子を見つつ、むくみを取る治療をすることにした。夜間は菅原さん夫妻が交代で泊まり込んで付き添った。 3月、富男さんの状態が改善しないため、医師の勧めで花巻市内の精神科を受診した。診断は「中程度のアルツハイマー病」による認知症。がんの治療はあきらめ、そのまま精神科に入院した。 1カ月後、富男さんはベッドから転落して大腿(だいたい)骨を骨折。体力は急激に衰え、5月に心不全で息をひきとった。 前後して、母のリヨさんにも認知症を疑わせる言動が目立ってきた。富男さんの葬儀も終わって一段落した6月、菅原さんは、今度はリヨさんを精神科に連れて行った。 母も、アルツハイマー病だった。 受診遅れ、放射線治療も中止に
岩手県の菅原東一さんは98年、父を亡くした。腎臓がんだったが認知症のため精神科に転院後、転倒して負傷したのが引き金だった。直後に母もアルツハイマー病と分かった。76歳の母リヨさんは98年11月、岩手県中部の老人保健施設に入所した。徘徊などの症状があったため、共働きの菅原さん夫妻が自宅で介護することは難しかった。 異常が見つかったのは、00年4月。血の混ざったおりものが出ていることに、施設の職員が気づいた。施設長を務めていた医師は、ホルモン分泌の低下などによる膣(ちつ)炎とみて治療したが、しばらくするとまた出血し、その後も治療と再発を繰り返した。 「子宮がんかもしれない」と医師は思ったが、病院に行かせることはためらった。老健施設の入所者は施設内で医療を受けることが前提になっている。外部の病院を受診すると、費用は基本的に老健施設の負担になるからだ。 結局、菅原さんが医師から母の異常を知らされたのは9月末。すぐに花巻市内の病院で検査を受けたが、結果はやはり、子宮頸(けい)がんだった。 「かなり広がっています。完治は難しいでしょう」と医師に告げられた。「もっと早く病院に来ていれば……」。菅原さんは悔やんだが、どうにもならなかった。 リヨさんは体力もないため、手術や抗がん剤治療はせず、放射線治療でがんを小さくすることにした。10月中旬、老健施設を退所。放射線設備がある盛岡市内の病院に入院した。 この病院は完全看護をうたっていたが、リヨさんの場合は認知症を理由に、夜間の付き添いを求められた。「看護師の人手が少ない時間帯に迷惑をかけては申し訳ない」と、家族交代で病室に泊まり込んだ。 治療では、リニアックという装置でリヨさんのおなかや腰に放射線を当てた。それを数週間続けた後、膣の中に挿入した細い管に遠隔操作で放射線源を入れる「腔内照射」をする予定だった。 ところが、認知症の影響でリヨさんはじっとしていられない。管の中に放射線源を入れることができず、治療は続行できなくなった。 「治療ができない以上、なるべく早く退院してほしい」 12月中旬、菅原さんは看護師からそう伝えられた。 やっと受け入れ先、症状も落ち着き
岩手県の菅原東一さんの母は00年秋、子宮頸がんで放射線治療を受けた。だが認知症のため治療は中止され、12月、病院から退院を求められた。78歳だった母リヨさんは、入院と同時にそれまで入っていた老健施設を退所していた。そのため菅原さんと妻の陽子さんは、病院を退院した後の受け入れ先探しに奔走することになった。 自宅のある石鳥谷町(現花巻市)近隣の老健施設や特別養護老人ホーム、グループホームはどこも満員だった。町役場にも相談したが、空きがあったのは、自宅から車で2時間以上離れた釜石市などの施設だけだった。 病院に頼み込み、退院を延ばしてもらうしかなかった。それでも年が明け、1月が2月になると、看護師から頻繁に「もう施設は見つかりましたか」と、せっつかれるようになった。 結局、リヨさんは2月下旬に退院。その後は別の病院に短期入院したり、特養ホームに短期入所したりしてつなぎ、4月、花巻市に新設された新しいグループホームに入ることができた。 ホームに入ってからのリヨさんは、音楽を聴いたり、週末に菅原さんたち家族の訪問を受けたりしながら、静穏な日々を送った。徘徊など認知症の症状は落ち着き、がんの症状も、少量の出血を見ることがあった程度だった。 食欲の衰えなどで石鳥谷町の病院に入院したのは02年2月。5カ月後、79歳で亡くなったが、死因は老衰だった。 両親のことを振り返って、菅原さんは思う。 父も母も、結果的にがんの治療はほとんどできなかったにもかかわらず、医師に言われるまま病院に入院させて認知症の症状を悪化させたり、退院後の受け入れ先に困ったりした。だが、たとえば母の場合は、病院に入るより老健施設にいた方がよかったのではないか。そんな選択肢もあると知っていたら、どんなに役に立ったことか――。 認知症などで介護が必要な高齢のがん患者は今後ますます増えるだろう。その治療や受け皿に悩む患者や家族の相談に応じ、病院や行政と連携して医療・福祉へと橋渡しする活動ができないか。菅原さんは今、患者会の会長としてそんなことを考えている。 (文・島津洋一郎)
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情報編 がん
ネットや図書館活用、医師にも相談
「患者を生きる 母娘で闘う」で紹介した高知市の安岡佑莉子さん(57)は、娘の胃がんについて学び、主治医に抗がん剤の選択を提言できるまでになった。専門知識のない患者や家族が、能動的に病気に向き合うためのポイントをまとめてみた。まずは、医師の話はできるだけメモしておくことだ。すぐには理解できなくても、後で調べるときに役に立つ。疑問点や患者の体調なども記しておくと、医師とのコミュニケーションを図りやすい。 基本的な知識をまとめた本を一通り読んで手元に置いておけば、家族を含めて理解を深められる。「患者さんと家族のための がんの最新治療」(岩波書店)や「がんを生きるガイド」(日経BP社)などがある。 詳しい情報を得るには、大きな病院に広まってきた「患者図書館」を活用する方法がある。県立静岡がんセンター「あすなろ図書館」のように、専任の司書がいる所もある。日本病院患者図書館協会が運営するウェブサイト「Web患者図書館」で探すことができる。 治療法などの情報を集められる代表的なウェブサイトの一つが、国立がんセンターが作った「一般向けがん情報」。先端医療振興財団の「がん情報サイト」は、米国国立がん研究所(NCI)の情報を翻訳して掲載している。 ただ、ネット情報の中には、信頼性に疑問があるものも少なくない。うのみにせず、治療法の選択や疑問については、医師と十分に話し合うことが最も大切だ。 主治医以外の医師に意見を聞きたいときは、「セカンドオピニオン外来」を利用する方法がある。ただ、検査データなどが必要なので、主治医にもきちんと伝えるのが基本だ。セカンドオピニオンを頼める医師や病院は、ネットやガイド本でも調べられる。 患者会は、ほかの患者との情報交換や、悩みを話し合うことで精神的な支えになる。各地に様々な団体があり、病院に問い合わせたり、ネットやガイド本で探したりして選ぶことができる。 心の支えになる闘病記は、東京都立中央図書館の専門コーナーや、ネット上の古書店「パラメディカ」で探せる。 ●記者のひとこと がんに対する関心の高まりを背景に、この数年で書籍やネットの情報は格段に増えて、国も情報提供の仕組み作りを検討し始めるなど、情報量は充実してきた。だが、治療法の「正解」は必ずしも一つではない。患者自身が治療や生き方について主体的な考えを持たないと、情報に振り回されかねない。患者それぞれに、病気との向き合い方が問われる時代と感じた。 |
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がん 母娘で闘う:上
「時間がない」告知メモの衝撃
99年8月、高松市の病院。医師からこっそり渡されたメモをトイレで開いて、安岡佑莉子さん(57)は震えと涙が止まらなかった。体の不調を訴えて受診した22歳の長女・中島英子(あやこ)さんの、本当の病名だった。 英子さんは化粧品会社に勤め、高松で一人暮らしをしていた。2週間ほど前、よさこい祭りに合わせて、高知市に住む佑莉子さんのもとに帰省した。顔色が悪く、やせた感じが、どうにも気になった。近くの診療所では腸炎と言われたという。「大きな病院に行ったほうがいいよ。絶対に変よ」と念を押した。 やがて、高松に戻った英子さんから電話があった。「病院に行ったら、胃潰瘍(かいよう)で手術することになった。お母さんに来てもらってと先生が言うんだけど、来られる?」 胃潰瘍なら薬で治すはず。まさか……。佑莉子さんに疑念がわいた。もしもがんだったら、幼なじみが勤務医をしている地元の高知医大(現高知大)病院で治療を受けさせようと心に決めた。 翌日。高松の病院で、英子さんと一緒に説明を聞いた。医師は病名をあいまいにして話しながら、佑莉子さんに目配せをしてみせる。「手術は高知で受けます」と言うと、快諾された。検査データを受け取って席を立った時、走り書きのメモを手渡された。 佑莉子さんは、高知医大で主治医となった松浦喜美夫医師から、改めて英子さんの胃がんについて説明を受けた。 かなり進行している可能性が高く、抗がん剤の5FUとシスプラチンで小さくしてから手術で切除し、根治を目指す。胃がんでは術前の抗がん剤治療は効果が立証されていないが、松浦医師らは数例手がけ、手応えを感じていた。 こうした治療を始めるには、英子さんに本当の病名を告げなければならない。 説明を受けた日の夕方、佑莉子さんは「初期のがんで、切れば治る。がんばって治そう」と切り出した。英子さんは驚いた様子を見せながらも「わかった」と答えた。 がんがかなり進行しているらしいことだけは、どうしても言えなかった。 転移の恐れ 手術直後から抗がん剤 99年8月、22歳の中島英子さんに胃がんが見つかった。がんは進んでおり、9月、高知医大(現高知大)病院で抗がん剤治療後、手術を受けることになった。 告知の翌日から、抗がん剤の点滴が始まった。主治医の松浦喜美夫医師は当初、週3回の点滴を2週続ける予定だったが、白血球の減り方が激しく、1週間でやめた。 9月21日に手術。朝から始まり、午後4時半まで続いた。胃の4分の3と胆のうを摘出し、さらに近くのリンパ節二つも切り取った。 手術後、母の安岡佑莉子さんは松浦医師から「思ったよりがんが進んでいて、漿膜(しょうまく)まで浸潤していると考えられます。組織診の結果を待ちましょう」と言われた。胃壁は5層の膜からなり、漿膜はその最も下の層にある。 松浦医師の言葉に、がんを切り取れば治療が終わるわけではないのだと、佑莉子さんは思い知らされた。専門知識はなかったが、医師の口ぶりから楽観できないことは察せられた。だが、英子さんには「がんは初期で、切れば治る」と教えてある。不安な気持ちを必死で隠しながら、英子さんに接した。 10日ほどして、組織診の結果を松浦医師から聞いた。 「残念ですが、腹膜に播種(はしゅ)が認められました。未分化の印鑑細胞です。たちの悪いがんだと考えてください」 胃壁に深く浸潤して穴を開けたがんが、胃の外の腹膜に飛び散っているということだった。こうなるともう、がん細胞が体のあちこちに転移している可能性が高い。 専門用語が交じった医師の説明を聞いても、佑莉子さんにはよく分からなかった。「治るんでしょうか」と聞くのが、精いっぱいだった。 「1年以内に再発する確率は80……いや70、いや、60%です」 松浦医師の言葉が頭の中をぐるぐる回る。自分の顔から血の気がうせていくのが、はっきりわかった。英子さんに悟られないようにするのが精いっぱいだった。 翌日から、また抗がん剤治療が始まった。体に負担がかかっても、残っているがん細胞を極力減らすことになった。白血球の数値が限界まで下がると点滴を中止し、上がってくると再び点滴する。副作用の吐き気と下痢がひっきりなしに続き、英子さんの体重は34キロ台まで減った。 (文・高山裕喜)
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がん 母娘で闘う:下
最新の治療法、徹底的に勉強
中島英子(あやこ)さんは22歳だった99年9月、高知医大(現高知大)病院で胃がんの手術を受けた。だが転移の可能性があり、手術直後から抗がん剤治療を再開した。 00年春、手術後から続いた抗がん剤治療がひとまず終わり、英子さんは勤め先のある高松市に戻った。以後2カ月ごとの通院治療を数回繰り返し、わずかながん細胞も残さず再発を防ぐことになった。 母の安岡佑莉子さん(57)は、自分の知識不足がふがいなかった。黙って医師の話を聞いているだけでいいのか。ちゃんと調べれば、娘を救う方法があるのではないか――。 がんについて徹底的に勉強し始めた。午前中から高知医大の図書館や県立図書館に通い、パートに出る夕方まで専門書を読みこんだ。 その日知ったことを寝る前に振り返り、わからない点があると翌朝、開館時間前から図書館に向かった。最新の治療法は、がんの専門誌を毎月数冊買って熟読した。 「娘のがんが再発したら、地元の病院では対応できないだろう」。そう考え、全国の胃がんの専門医100人近くに手紙を出した。英子さんの病状を詳しく書き、「再発した時、治療の方法はあるでしょうか」と質問した。 返信は3通。内容はどれも厳しく、「おそらく転移しているから、好きなことをさせた方がよい」と書かれた手紙もあった。新しい抗がん剤や治療法の情報が知りたくて、製薬会社や出版社にも手紙を出した。どこまで情報が得られるかわからなかったが、何かせずにはいられなかった。 一方、仕事に復帰した英子さんは、半年前と違う自分の体に悔しさを感じていた。 胃の4分の3を切ったため、弁当は一度で食べきれず、何度かに分けて食べる。食後、吐き気が起こると1時間近くトイレにこもる。外で食事をすること自体がつらくなった。発熱すれば会社も休まざるを得なかった。 「22歳まで、手抜きをして生きてきたわけではないのに、なぜ」。涙があふれた。 2カ月ごとの抗がん剤治療で点滴の針を刺しやすいように、胸の血管に器具をつけておこうと主治医から提案された。だが、断った。「そんなものを体に残しておいたら、病気に支配される」と思った。いつかは必ず、点滴を外す。そう決意していた。 手術後5年、再発なく婚約
中島英子さんの胃がんは転移が予想されたため、99年9月の手術後も厳しい抗がん剤治療が続いた。母親は22歳の娘を救いたいと、がんについて猛勉強した。00年11月。高知医大(現高知大)病院で抗がん剤治療を始めて1年余、4クール目の治療に入って1カ月がたっていた。吐き気やだるさには慣れてきた英子さんの体中に、かゆみやほてりが出た。呼吸も苦しい。これまでにない副作用と考えられた。 「もう抗がん剤はやめましょう」と主治医の松浦喜美夫医師は言った。だが、母の安岡佑莉子さんはためらった。 使っていたのは、5FUとシスプラチンという抗がん剤だった。呼吸の苦しさは、シスプラチンの副作用ではないのか。5FUをやめてしまったら、5FUの効果を高めた新しい飲み薬TS1も使えなくなる。そうなると、がんが再発した時に戦う手段がなくなってしまう――。 佑莉子さんは「シスプラチンだけやめて、5FUは続けてほしい」と頼んだ。 リスクはある。だが、できるだけ患者側の意見を尊重したいと松浦医師は考えた。英子さんを診察室に移し、呼吸困難に備えてステロイド剤の注射も用意したうえで、5FUだけ点滴を続けた。新しい副作用は出なかった。 点滴による抗がん剤治療は00年いっぱいで終了。01年からは、UFTという飲み薬の抗がん剤に切り替えた。体力は次第に回復し、再発の不安も少しずつ薄らいでいった。 手術から約2年後のある日、英子さんは体調がさえないと、地元の産婦人科で女性ホルモンの注射を受けた。 それを知った佑莉子さんは、あわててやめるように説得した。安定している状態に、悪影響が出ることが心配だった。 そして、初めて英子さんに伝えた。「実はがんが1年以内に再発する可能性は80%だった。やっとここまできたのだから、大事にしてほしい」 再発率80%――。「その重みを、今まで一人で抱えていてくれたんだ」。英子さんに母への感謝がわき上がった。 がんは、治療後5年間に再発がないことが、治癒のめどとされる。手術からちょうど5年後にあたる04年9月21日、英子さんは発病前から交際していた昌宏さんと婚約。その1年後に結婚し、新たな生活を始めた。 患者会立ち上げ、活動続ける
22歳で胃がんとわかった中島英子さんは04年9月、再発なく手術後5年を迎えた。母の安岡佑莉子さんはこの間、専門知識を独学して闘病を支えた。高知市に住む佑莉子さんは、英子さんの治療を通じ、患者が「情報と仲間」から孤立していると痛感した。 99年に英子さんの胃がんがわかってから、佑莉子さんは専門書を読み、医師や製薬会社に手紙を書き、独力で情報を集めて「壁」を乗り越えようとした。だが、本人や家族が悩みを打ち明けたり、ほしい情報を得たりできる場所には、たどり着けなかった。 英子さんの治療が一段落した02年11月。佑莉子さんは、思いを新聞に投稿した。 「不安を感じたとき、気軽に駆け込める相談室や情報センターなどの態勢づくりが、もっと検討されてもよいのではないでしょうか。がん患者会を、高知にも立ち上げたいものです」 記事を読んだ地元の人たちから「ぜひ、作って欲しい」と反響が集まった。その声に励まされ、高知医大(現高知大)病院で英子さんの主治医だった松浦喜美夫医師(現いの町立国民健保仁淀病院長)の協力も得て、02年末、がんの部位を問わない患者会「一喜会」を立ち上げた。 会員は現在約80人。専門医による講演のほか、会員同士が疑問や悩みを話す「座談会」が活動の柱だ。 「薬を飲んでいるが、腫瘍(しゅよう)マーカーの数値が上がっている。このまま続けていいだろうか」「腹腔鏡(ふくくうきょう)手術は、何例くらい手がけていれば一人前の医師なのだろう」 医師が座談会に参加することもある。「患者さんの悩みを知ることができ、こちらも勉強になる」と松浦医師。 患者や家族からの電話相談にも応じている。会長をつとめる佑莉子さんの携帯電話には、昼夜を問わず様々な問い合わせがある。講演の協賛金集めや、会のホームページの更新も引き受けている。 手術から間もなく7年。すっかり回復した英子さんは、夫と暮らす高松で会社員として忙しい毎日を送る。だが佑莉子さんは、患者会の活動をやめるつもりはない。 「知ることが、患者の力につながる」 そう信じているからだ。 (文・高山裕喜)
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情報編 多発性骨髄腫
多発性骨髄腫(こつずいしゅ)は患者の98%が40歳以上で、高齢の男性に多い病気だ。発症者は年間2千〜3千人。ほかのがんに比べて多くはないが、高齢化によって患者は増えていくとみられる。未承認サリドマイド、管理に課題 がん細胞は骨髄中にできるため、治療は切除手術ではなく、抗がん剤による化学療法が中心だ。「患者を生きる サリドマイド」で紹介した坂口富子さん(66)が受けた造血幹細胞の移植も有効な方法だ。ただ、大量の抗がん剤投与も伴うため、体力的に65歳以下に向く治療法とされている。 今のところ根治は難しいとされるが、ほかに治療がなくなった患者への治療効果が期待されているのが、日本では未承認薬のサリドマイドだ。 英国の科学誌で03年に発表されたデータでは、難治患者の35%には、サリドマイドの服用だけで効果があった。ステロイドホルモン剤を併用すると、約50%の患者に有効だった。 国内では、藤本製薬(大阪府松原市)が厚生労働省の承認をめざし、治験を終えて症例を検証中。ただ、すでに医師が個人輸入して患者に使うケースは広がりつつあり、04年の輸入量は約53万錠に達している。 サリドマイドはもともと、60年代を中心に国内だけで千人(推定)の薬害被害者を出したことで知られる。胎児の先天性障害などを招く恐れがあるため、日本臨床血液学会はガイドラインを定め、確実な避妊や服用記録簿をつけること、残った薬の回収など、厳重な管理を求めている。坂口さんは、服用後の空き袋にまでサインしてすべて保管し、主治医に返している。 ただ、順守されていない例もあり、昨年は埼玉県内の病院で、医師が個人輸入したサリドマイドのずさん管理が表面化した。 サリドマイド被害者団体の財団法人「いしずえ」の間宮清事務局長(43)は「サリドマイドを必要としている人がいる限り、保険適用は必要だ」としたうえで、「安全管理システムを確立するための検討会を、患者や被害者も入れて早急に立ち上げるべきだ」と指摘している。 ●記者のひとこと 「少しでも可能性があるのならば賭けたい」「わらにもすがる思いで治療法を探している」。連載に対していただく感想には、そんな当事者の声が多く寄せられる。サリドマイドは、多発性骨髄腫の患者家族にとってそういう薬だ。治療法がなくなってたどりつく。その切実な思いは無視できない。もちろん、過去の薬害の事実は重い。だからこそ国がしっかり関与していく姿勢を示すことが、求められていると思う。 (文・武田耕太)
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がん サリドマイド:上
薬求め2カ月ごと渡る瀬戸内
2カ月に一度、県境を二つ越えて病院に行く。岡山県吉備中央町。人口1万4千人余りの山あいの町から、坂口富子さん(66)は早朝、夫の錦司さん(70)が運転する車で徳島市へ向かう。 瀬戸大橋を通って四国に渡り、香川県を抜けるのに1時間弱、目的地の徳島大学病院までは2時間半かかる。橋の通行料など交通費は、往復で約1万5千円になる。 富子さんは、血液のがんの一種「多発性骨髄腫(しゅ)」を発病し、その治療薬として8週間分56錠のサリドマイドを求めて通う。 サリドマイドは、米国など海外ではこの病気の薬として使われる。がん細胞に栄養を運ぶ毛細血管の発生を抑えるといわれる。 だが、睡眠鎮静剤として使われた1950〜60年代には先天性の障害児が生まれる薬害を引き起こし、国内の製造は中止された。以来、厚生労働省から承認されず、輸入して使う場合も、日本臨床血液学会のガイドラインで厳重管理が求められる。処方している病院は、学内の倫理委員会が使用の是非を判断している徳島大病院など一部だ。 「岡山でも手にできるようになれば」。夫婦の願いだ。 多発性骨髄腫では、病原体への抗体をつくる骨髄中の細胞が腫瘍(しゅよう)化する。骨は破壊され、免疫機能も低下する。血液細胞を正常につくれなくなり、貧血症状も出る。 富子さんに症状が表れたのは、00年3月だった。 それまで病気らしい病気もせず、兼業農家の妻として畑仕事をしながら2人の子を育てた。子どもが手を離れてからは、近くの病院で看護助手として働いてきた。 それが突然、右足の付け根の痛みで歩けなくなった。近くの整形外科医院に行くと骨盤が折れていて、血液検査で異常もみつかった。4月、岡山市内の病院の血液内科で精密検査したところ、「多発性骨髄腫で放っておけば余命は2年ほど」と告知された。 富子さんには聞いたこともない病気だった。ただ、「骨髄腫」という響きから「がんなんだな」と察した。 帰りの車中。サクラやコブシが咲く大好きな季節の風景が、目に入らなかった。 医師から「治療しても余命3年」 岡山県吉備中央町の坂口富子さん(66)は00年4月、血液がんの一種「多発性骨髄腫」と診断され、「放っておけば余命は2年ほど」と告げられた。 告知の2日後、岡山市内の病院に入院した。医師から示された治療法は、「自家末梢(まっしょう)血幹細胞移植」と大量化学療法の組み合わせだった。 ビンクリスチン、アドリアマイシンという抗がん剤とステロイドホルモン剤で、骨髄中のがん細胞を減らす。それから、血液のもとになる造血幹細胞を採取する。次に、メルファランという抗がん剤を大量に使い、骨髄に残るがん細胞をさらに減らす。その骨髄に、凍結保存しておいた造血幹細胞を移植し、一から血液をつくる作用を促す。 がん細胞は造血幹細胞に混じっていたり、骨髄に残っていたりするため、いずれがんが再発する可能性はある。ただ、自分の血液から取った細胞なので不適合の危険性はなく、骨髄中のがんもいったん激減するため、存命期間は延長が望める。 夫の錦司さんは当時、34年間勤めた農協を退職し、ビルの設備管理をしていた。仕事後はほぼ毎日、車で40分ほどかけて病院を訪ねていた。 4月末、錦司さんは医師から「この治療をしても、余命は3年と思ってほしい」と告げられた。続けて、医師は「最近は外国で、サリドマイドで治療がうまくいった例もあるけど……」と漏らした。 「あのサリドマイドか」。60年代の日本で、先天性障害児が生まれる薬害を引き起こした薬の名前が出てきたことに、錦司さんは驚いた。だが、それ以上に余命の告知はショックだった。「大変なことになった」という思いで頭がいっぱいで、サリドマイドについて医師に聞くことはしなかった。 抗がん剤の点滴は4月から始まった。7月に造血幹細胞を採取。体力回復のため移植は10月に行うことにし、8月、いったん退院した。 抗がん剤の副作用で、すでに頭髪はかなり減っていた。美容院に注文しておいたかつらを受け取ってから、4カ月ぶりの自宅に戻った。誰の手も入らなくなった畑に、雑草が勢いよく伸びていた。 食欲も体力もなかった。セミの声を聞きながら家の中の涼しいところを探し、寝たり起きたりの日々を過ごした。 (文・武田耕太)
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がん サリドマイド:下
海外論文も調べ、効果知る
岡山県吉備中央町の坂口富子さん(66)は多発性骨髄腫(しゅ)と診断された。抗がん剤などによる治療が00年4月に始まり、8月、いったん自宅に戻った。富子さんは10月、再び岡山市内の病院に入院した。3カ月前に採取し、凍結保存してある自分の造血幹細胞を移植するためだ。 抗がん剤のメルファランを大量に投与し、骨髄中のがん細胞を激減させてから、造血幹細胞を体内に戻した。この薬の副作用はひどく、激しい吐き気が続いた。 年の瀬の12月28日、退院した。だが、副作用の影響で食事はほとんど受け付けず、何もする気が起きなかった。 いつもの年は大掃除やおせち料理の準備に追われていた。せわしないながらも楽しいひととき。黒豆や野菜が煮立っていくにおい、鍋から湯気が立つ台所の空間が好きだった。それが今は、寝ていることしかできない。「私は病気なんだ」と実感した。 夫の錦司さんは時間があれば自室にこもり、インターネットで多発性骨髄腫の情報を集めていた。患者団体などのサイトには、研究が進んでいる海外の論文も掲載されていた。すぐに翻訳ソフトを購入。「後悔だけはしたくない。とことん調べてみよう」と思っていた。 さまざまな資料に「サリドマイド」が出てきた。海外では多発性骨髄腫への効果が確かめられていること、毛細血管の発生を阻害するため腫瘍(しゅよう)の増殖を抑えるとの説があることなどを知った。 「いつか妻もサリドマイドを使うんだろうか」。漠然とそう考えていた。 翌01年の春になると、富子さんは徐々に回復した。連休には孫も一緒に、家族で島根の出雲大社に出かけることもできた。久しぶりの遠出。車の窓から新緑がことさらきれいに見えた。「よくなりますように」と祈った。 直後にまた入院し、造血幹細胞を再び移植した。移植前の抗がん剤治療ではやはり副作用に苦しんだが、6月末には退院できた。 2度の移植が功を奏し、以後しばらく、富子さんに多発性骨髄腫の症状は見られなくなった。だが、錦司さんは主治医から「また状態が悪くなることもある。そのときはサリドマイドを使うしかないだろう」と言われていた。 「最後の手段」、処方できる病院探す 岡山県の坂口富子さん(66)は01年8月、多発性骨髄腫の治療を終え、自宅に戻った。抗がん剤と造血幹細胞移植が効き、その後は無症状の状態が続いた。 岡山市内の病院を退院してからは、腫瘍の発生を妨げる作用があるといわれるインターフェロンの自己注射を続けた。抗がん剤の副作用で低下した体力はやがて回復。看護助手の仕事は辞めたが、畑仕事や生け花は始められた。 ところが、04年の年明けごろから、血液中の異常たんぱく値が上昇に転じた。多発性骨髄腫の症状で、骨髄中にがん細胞が増えていることを示していた。 「どうすればいいのか」。異常たんぱく値を記録している折れ線グラフを見ながら、夫の錦司さん(70)は頭を抱えた。主治医には「次はサリドマイドしかない」と言われている。ただ、未承認薬であり、「最後の手段」との思いもあって、いま使うべきかどうか、決断できなかった。 4月、「日本骨髄腫患者の会」のホームページで紹介されていた、治療法についての講演会に参加した。質疑応答では手を挙げて富子さんの状態を説明し、「今後の治療をどうしたらいいか、悩んでいます」と不安をぶつけた。 「サリドマイドを使ったほうがいいのではないか」。壇上の医師の答えに、錦司さんの気持ちは固まった。 岡山市内の病院の主治医に「サリドマイドを使いたい」と伝えた。すると、「できることならやりたい。でも難しい」と言われた。この病院ではサリドマイドが未承認薬であることを理由に、処方が認められていなかった。 あきらめられなかった。この4年間、富子さんは「助けて」とも「つらい」とも言わず、抗がん剤の副作用の激しい嘔吐(おうと)や脱毛に耐えてきた。「これまでの苦労を無駄にはできない」と思った。 「岡山県内でサリドマイドを処方する病院があれば、教えていただけませんか」 助けを求める気持ちで日本骨髄腫患者の会にメールを送ると、まもなく返信があった。「岡山県で処方している病院は知りませんが、近くでは、徳島大病院がサリドマイドの臨床試験を実施しています」と書かれていた。 「徳島か……」。車なら片道3時間ほど。無理な距離ではない。錦司さんはすぐ、徳島大病院に電話した。 症状は軽減、畑仕事を楽しむ 岡山県の坂口富子さん(66)に04年、多発性骨髄腫が再発した。サリドマイドを処方する病院を患者会に尋ね、徳島大病院で臨床試験を受けることにした。 富子さんが初めて徳島へ向かったのは7月5日、豪雨の朝だった。ハンドルを握る夫の錦司さん(70)は、フロントガラスをたたきつける雨に徳島を一層遠く感じたが、「これが希望につながる道なんだ」と考えた。 徳島大病院では、血液内科の安倍正博医師から「サリドマイドだけだと、効果があるのは海外で患者の3〜4割。効かない人もいます」と説明された。だが他に打つ手はない。サリドマイドが過去に薬害を引き起こしたこと、飲まなかった分は病院に返納することなどが書かれた同意書にサインした。そして、副作用の出方をみるために入院して処方を受けた。 9月初め、多発性骨髄腫の症状である血液中の異常たんぱく値が、服薬前の4分の1に減った。「よく効きましたね」。安倍医師の言葉に、富子さんは張りつめた心がほぐれていくのを感じた。 臨床試験は9月末に終了。異常たんぱくは、当初の10分の1まで激減した。その後、富子さんは徳島に2カ月ごとに通って薬を処方され、毎日、寝る前に1錠服用している。症状は安定している。 定期検査や骨のケアなどの治療は、岡山市内の病院の主治医が徳島大病院と連携して実施してくれている。 ただ、薬代は1カ月あたり2万円余りかかる。その他の治療や検査費にも、月3万円以上必要だ。退職金と年金で暮らす坂口さん夫婦にとって、負担は軽くない。 サリドマイドが効かなくなる可能性もある。その時に備え、錦司さんは今もパソコンに向かう。海外で承認の準備が進む新薬「レナリドマイド」などの情報を集める。 そんな錦司さんの支えに感謝しつつ、富子さんは畑仕事を楽しんでいる。「私は自然でいたい」と笑う。 「一寸先が分からないのはみんな一緒。24時間、がんのことばかり考えていられない。考えて自分を追い込む必要もないでしょう?」 吉備高原は初夏。あと1、2カ月もすれば、畑はナスやキュウリでいっぱいになる。 (文・武田耕太)
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情報編 前立腺がん
小線源療法、効果は手術と同等
カプセルからじわじわ放出される放射線ががん細胞を死滅させる。がん細胞の直近で放射線を出すので、他の健康な細胞への影響を少なく抑えることができる。その一方で、がん細胞が前立腺内部に限られている早期がん患者には有効だが、がんが前立腺の外にも広がっていると別の治療が必要ということになる。 西田さんの治療に当たった佐藤威文・北里大講師(泌尿器科)によると、10年以上にわたる米国での治療成績は、再発防止の効果は外科手術と同等。手術に比べ、排尿や性機能の障害が起きる割合が低いとの結果も出ている。治療後に前立腺のむくみで排尿障害などが起きることがあるが、普通は半年程度で治まるという。 米国では最近10年ほどで急速に普及し、前立腺がん治療の主要な選択肢になっている。日本で始まったのは3年前から。放射性物質を扱うため、設備が整った病院でしかできないが、40病院以上に増えてきた。インターネットで「小線源療法を導入している全国病院リスト」(http://www.nmp.co.jp/public/)を調べることができる。 前立腺がんの治療には、外科療法、放射線療法、ホルモン療法などの選択肢がある。進行が比較的ゆっくりなので早期の場合には、積極的な治療をせず経過を観察するという選択もある。がんが前立腺内部にとどまっているか、外にも広がっているかの病期によって選択の幅が変わる。 外科療法は手術で前立腺を取り除く。放射線療法には小線源療法と別に、外部から放射線を当てる方法もある。ホルモン療法は、前立腺がんが男性ホルモンの影響で増殖することに注目した治療法で、注射薬や飲み薬がある。 近年、西田さんが人間ドックで受けたようなPSA(前立腺特異抗原)検査の普及によって、より早い段階で前立腺がんが見つかるようになってきた。早期ならば治療の選択肢も幅広いし、その中から自分に合った治療法を選ぶことができる。 ●記者のひとこと 前立腺がん治療後の「生活の質」の本音話は、よほど親しい男性同士でないと話しにくい。自分が治療を受けるとなれば、「勃起(ぼっき)はどうなるのだろう」と話せる仲間がほしい。西田さんのように、体験を率直に語り合える仲間がいることは大きな力になる。「生活の質」を前向きに語り合って治療法を選ぶようになれば、医療の質を変える力にもなるだろう。 (文・浅井文和)
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がん 小線源療法:上
劇的に効いた保険外診療
「検査結果をふまえて治療方針を説明します。ご家族も連れてきて下さい」 前立腺がんが疑われていた04年12月上旬、東京都八王子市の西田武彦さん(68)は、市内の病院で泌尿器科の医師からそう言われた。入院して前立腺の組織を採ったり、CT(コンピューター断層撮影)を受けたり、様々な検査を重ねていた時だった。 2週間半後の説明には、西田さんと妻、長男、長女、次男夫婦の計6人がそろった。 「初期がんで、転移はありません」。医師の言葉に、緊張が緩んだ。続いて「治療としては、再発や転移のリスクを減らせる全摘除手術をお勧めします。ただ、合併症として、尿失禁、勃起(ぼっき)不全などが生じる可能性があります」と説明された。 西田さんが「その他の選択肢は?」と尋ねた。 「放射線治療ですね」 「小線源療法はどうでしょう?」。日本で始まったばかりの新しい治療らしい。そう次男夫婦から教えられた治療法の名を出してみたが、医師の返事は素っ気なかった。 「当院でやっていない治療法については、コメントしようがないです」 手術を受けるとすぐ決断していいものか、西田さんはためらった。他の治療法の方が、よくはないのか。その場は「考えさせてください」と引き取った。 前立腺がんが見つかったのは、5カ月前に受けた人間ドックがきっかけだった。 「PSAマーカー8・5のため前立腺の精査を要す」と、結果にあった。PSA(前立腺特異抗原)は前立腺がんの検診に使われる検査値で、血液を採って調べる。数値が4を超えると精密検査を勧められるのが普通だ。 それまで、健康を顧みる余裕があまりなかった。人間ドックを受けたのも初めてだった。大学卒業後、技術者として電子機器メーカーに40年余り勤務。技術士の資格を持ち、退職後も技術コンサルタントとして、様々な企業の相談に応じてきた。 医師の説明を受けたのが12月27日。「この際、正月休みを取ってじっくり治療法を調べてみよう」。西田さんの模索が始まった。 「同じ生活を」調べた本9冊
東京都の西田武彦さん(68)は04年末、初期の前立腺がんと診断された。病院の医師から手術を勧められたが、自分で他の治療法を調べてみることにした。 西田さんの自宅は八王子市の静かな住宅街にある。子どもたちは独立し、庭に桜の大木がある家に妻と2人暮らしだ。ここで西田さんは前立腺がんの治療法について勉強を始めた。技術コンサルタントの仕事の依頼も断り、病気と向き合うことに専念した。 電子機器メーカーの技術者だった西田さんにとって、インターネットを使っての情報探しは手慣れた作業だ。しかし、自分が知りたいと思う情報は意外に少なかった。 前立腺がんにはどんな治療法があるのか。それはどこで受けられるのか。それぞれの治療にはどんな後遺症の可能性があるのか……。本を買ってきては読んだ。医師が書いたもの、患者が書いたものなど、計9冊になった。 選択肢として、医師から勧められた全摘除手術と、本などで知った小線源療法とを比べた。小線源療法は、がんが前立腺の中だけにあって転移もない人向けの治療法。放射線を出す微小なカプセルを80個ほど前立腺の中に入れ、がん細胞を殺す。米国では普及しているが、日本では03年9月に始まったばかりだ。 結局、(1)治癒率は両者でほぼ同じらしい(2)治療後の性機能の維持など、生活の質の面では小線源が優れる(3)小線源は実施できる病院が少ない、ということが分かった。 「小線源療法を受けよう」。なるべく治療前と変わらない生活をと考えた西田さんは、年が明けた05年の1月10日過ぎになって、決心した。 次はどの病院を選ぶかだった。日本で初めて永久挿入の小線源療法を実施した病院としてよく紹介される国立病院機構東京医療センター(東京都目黒区)は、患者が殺到しているだろうと思った。 1月17日、本に載っていた病院の一つ、北里大学病院(神奈川県相模原市)を訪ねた。どう頼んだらいいか分からず、泌尿器科の外来受付で「小線源療法を希望しています。他病院の紹介状や検査結果を持って来ていいですか」と尋ねた。「受け付けます」と言われて、ほっとした。 2月7日、最初の病院の紹介状を手に北里大病院を受診した。治療は順番待ち。西田さんの予定は9月だった。 (文・浅井文和)
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がん 小線源療法:下
メールでセカンドオピニオン
前立腺がんになった東京都の西田武彦さん(68)は医師に手術を勧められたが、自分で勉強して「小線源療法」を受ける決心をした。しかし、治療は順番待ちで半年後になった。 小線源療法を受けることは、十分に情報を集めて、自分で納得して決めた選択だった。それでも「何か見落としていることがあるのではないか」という気持ちが西田さんの心の中に残っていた。 05年2月。北里大学病院で初めて診察を受けた3日後、インターネットで情報を集めていて、「市民のためのがん治療の会」を見つけた。 舌がん患者で放射線治療を受けた會田昭一郎さん(東京都国立市)たちが「がん患者が納得して治療を受けられる医療」を目指して活動している団体だ。患者からの質問に対して、がん治療の専門家がセカンドオピニオンを文書で示す取り組みをしている。西田さんはさっそく入会して、電子メールでセカンドオピニオンを依頼した。 「私の選択について不安は感じておりませんが、ご専門の立場から『こういう視点(または選択肢)もあるんだよ』というご意見があれば、ご指導下さい」 4日後に、放射線治療の著名な専門家から返事が来た。 「治療法の選択に関しては十分に理にかなっていますので、注意点は特にありません。9月までの半年間の管理に関して、担当医と相談することをお勧めします」 これで自分の選択が正しかったと納得できた。 自分ががんになってみて、医療とのかかわり方を改めて考えることが多くなった。 同居していた義母を、92歳で亡くなるまで自宅で介護した経験もあった。義母は食べ物をうまくのみ込めない障害があったが、栄養を体に入れるための治療は嫌がり、最後まで口から食べようとした。 前立腺がんがすぐ死につながるとは思っていなかった西田さんだが、終末期になったらどんな医療を選択するかは考えておきたかった。がん緩和ケアの講演を聴きに出かけたり、本を読んだりした。 6月には日本尊厳死協会に入会して、「尊厳死の宣言書」に署名した。治る望みがなく、末期になった場合には、無意味な延命措置はしてほしくなかった。 そうするうち、小線源療法を受ける9月が迫ってきた。 長さ4.5ミリのカプセルを80個挿入
東京都の西田武彦さん(68)は、前立腺がんの治療に自ら「小線源療法」を選び、専門家もその選択に太鼓判を押した。 小線源療法を受けるため、北里大学病院(神奈川県相模原市)に入院したのは昨年9月5日の朝だった。予定は3泊4日。夕方、主治医で泌尿器科講師の佐藤威文(たけふみ)医師が病室にやって来た。「もう100例以上やっています。私がきちんと並べますから、ご安心下さい」という言葉に、ほっとした。 「並べる」とは、微小な放射線源を前立腺の中に入れることだ。線源は「ヨウ素125」という放射性物質を密封した長さ4.5ミリ、直径0.8ミリの円筒状の金属製カプセル。これを約80個、前立腺の中に針のような器具で挿入していく。そこから少しずつ放出される放射線によって、がん細胞が死滅する。挿入する場所は画像診断に基づいて決めるが、医師には十分な経験や技術も求められる。 6日、午後2時40分に手術室に入って麻酔を受け、5時に目覚めると治療は終わっていた。痛みもなく、病室に戻って8時には夕食を食べた。 翌7日の夕方、体外に出てくる放射線の強さを測った。規定の数値以下で問題なし。8日、予定通りに退院した。 退院に先立ち、佐藤医師とともに治療に当たった放射線科の医師から、小さな鉛製の容器を渡された。線源は一生、前立腺の中に埋め込んだままだが、ごくまれに尿などと一緒に体外に出てくることがある。その場合は、容器に入れて周囲への放射線の影響を防ぐように言われた。 線源から出る放射線量は1年もすればほぼゼロになる。1年の間でも、体外まで出る放射線はごく弱く、通常の生活では問題にならない。 それでも、昨年10月ごろ、次男の妻が妊娠したと分かった時には、必要以上に神経質になってしまった。西田さんにとってうれしい初孫。「問題ないとは思うが、気になる」と、今年1月、次男夫婦らの安産祈願のお宮参りは、自分から同道を遠慮した。 体調の方では、治療直後の昨年9月下旬からしばらく、寝ている間に5〜6回も尿意を感じるようになった。放射線による一過性のむくみで排尿障害が起きたためという。今年春までには治まり、今は何も支障がなくなった。 同級生に体験伝えメール仲間に
東京都の西田武彦さん(68)は前立腺がんの治療情報を自分で集め、昨年9月に小線源療法を受けた。その後に起きた夜中の頻尿も、今春には治まった。 治療から半年後の今年3月6日。西田さんは北里大学病院(神奈川県相模原市)で、X線撮影などの検査を受けた。「排尿機能も治療前の状態に戻っていますよ」と、主治医の佐藤威文医師から言われた。前立腺がんの指標になるPSA(前立腺特異抗原)は昨年12月の検査結果が出ていて、これも正常値だった。 今後は、がんの再発がないかどうかを定期的な検査でみていく。経過は順調だ。 一方、がん体験は、思わぬ「副産物」をもたらした。大学時代の同級生の中に、がんを含めて医療・健康についてメールを交換する仲間ができたのだ。 きっかけになったのは今年1月、かつて電気系学科で学んだ約20人が集まって開いた恒例の新年会だった。毎年、何人かがそれぞれテーマを決めてスピーチする場で、西田さんは「前立腺がんの治療経験」と題して話した。 自分は小線源療法を選んだが、手術を含め様々な選択肢があることを、パソコンで作った資料をもとに説明した。自分に最適な選択をするにはどんな点を考慮したらいいのか。1年余り、本などを読みながら考えてきたことを語った。同級生はみな男性で、前立腺がんが気になる年代。真剣に耳を傾けてくれた。 2月になって、新年会に来られなかった同級生が前立腺がんかも知れないという情報が流れてきた。さっそく、新年会の資料をメールで送った。すると4月、こんなお礼のメールが来た。 「主治医からは全摘手術を勧められましたが、小線源療法を受ける決心をしました。病院も決まりました。資料が参考になりました」 こうしたやりとりをへて、メール仲間ができた。同級生の男同士だと「この治療法による性機能への影響は?」などと率直に話せるのがいい。 人によって人生観はいろいろ。どの治療が正解というわけではない。「結局、自分の治療を後悔しないことが大切です」と、西田さんは言う。もちろん、自分の選択に後悔はない。 (文・浅井文和)
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情報編 子宮がん
放射線か手術か、説明受け選択を
「患者を生きる 選ぶ」で紹介した谷川翠さん(61)=仮名=が治療を受けた東京大学病院放射線科の中川恵一助教授は「日本は放射線治療医が少ないこともあり放射線治療を第一選択とすべき場合も手術が行われている」と指摘する。 谷川さんは、治療後に生活の質が変わらないことを優先して放射線化学療法を選び、この療法に取り組んでいた東大病院を選択した。現在は各地のがん専門病院や大学病院などでも、放射線化学療法は実施されている。 手術の場合は、切除範囲で後遺症の程度が変わってくるが、切除の範囲はステージだけで決まるものではない。 日本産科婦人科学会の婦人科腫瘍(しゅよう)委員会が全国の主な247医療機関に実施した調査(03年)によると、1期の初期段階(1aの1)の患者の45%は子宮を温存できる「円錐(えんすい)切除」という手術を受けていたが、30%は子宮全体を摘出、3%は子宮全体と周辺のリンパ節も取る手術を受けていた。 このステージでは、どんな治療法を最も適切とするかは医師の考え方や技術によっても異なる。患者にとっては、より十分な説明を受けることが重要だろう。 一方、谷川さんは最初の病院の婦人科医に「腺(せん)がんには放射線治療が効かない」と言われた。しかし、放射線治療の歴史が長い英国の事情に詳しい国立病院機構東京医療センター放射線科の萬篤憲医長は「欧米では、がんの組織型だけで治療方針を決めるわけではない。乳がんや前立腺がんのように、放射線がよく効く腺がんもある」と言う。 放射線科と婦人科の連携も重要だ。栃木県立がんセンター婦人科の関口勲医長は、患者の年齢や既往歴に応じ、放射線治療も積極的に勧めるという。「双方のメリットとデメリットを知り、納得できる治療法を選んでください」と、助言している。 ●記者のひとこと がんが見つかり、医師に「早く治療した方がいい」と言われたら、誰もが焦ると思う。特に子宮がんは出血などがあり、不安になる。医師の多くは男性で、心理的な負担を感じる人もいるだろう。だが、谷川さんはすぐには治療法を決めず、疑問点を自分で調べ、家族の力も借りて医師に質問した。納得いく治療を選ぶには、患者側の努力や工夫、勇気も大切だと感じた。 (文・前田育穂)
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がん 選ぶ:上
初診で「治療法ここで決めて」
これ、何かしら。東京都世田谷区の主婦、谷川翠さん(61)=仮名=が体の異変に気づいたのは、01年の2月ごろだった。 疲れると、桜の花のような色がついたおりものが出る。それまでなかったことだった。 「今日こそ婦人科に行かなくちゃ」と毎日思ったが、なかなか足は向かなかった。 内診台で触診を受ける婦人科の内診に、抵抗があった。加えて、忙しかった。親しい親類が肝臓への転移がんで末期の状態にあり、看病を手伝うために週1、2回、片道2時間以上かけて神奈川県の病院に通っていたのだ。 3月になり、自宅で受ける郵送がん検診の申込書を以前に取り寄せていたことを思い出した。念のためにと子宮頸(けい)がんの検査を受けることにし、組織を採って名古屋公衆医学研究所に送った。 数日後、研究所の所長から電話があった。「至急、病院で検査を受けて下さい」 意を決し、近くの産婦人科医院に行った。検査の結果は、子宮頸がん。ショックだった。しかし、看病していた親類が直後に亡くなった方が衝撃だった。「私は、とにかく治療するしかない」。必死に気持ちを切り替えた。 夫と20代の長女、独立していた長男をはじめ、友人たちにも自分のがんを伝えた。 3月30日。産婦人科医院で紹介された都内の病院に行き、婦人科部長の男性医師から内診と細胞の検査を受けた。診察後、医師は紙に子宮の絵を描き、入り口あたりに丸をつけて「この辺にがんがあります。手術をするか放射線治療か、ここで選んでください」と言った。 続いて説明された。「手術では大きくがんを取り、周辺のリンパ節も取ります。後遺症によっては、おしっこはしぼり出さなければならなくなるし、足がかなりむくむ可能性もある。放射線は、周囲の臓器にもかかります」 おしっこをしぼり出す? リンパ節を取る? どういうことか理解できず、「すぐ決めるのは無理」と思った。 その日受けた検査結果が出るのは、1週間後だった。「どちらにするかは、その時に決めます」と答えるのが精いっぱいだった。 ◇
期限は1週間、必死に情報集めた
東京都の谷川翠さん(61)=仮名=は01年3月、子宮頸がんが見つかった。都内の病院の婦人科に行くと、手術か放射線治療かの選択をいきなり迫られた。 自分のがんを友人たちに知らせたことで、谷川さんのもとには様々な情報が寄せられた。治療法選びのタイムリミットは、検査結果が出る1週間後。むさぼるように知識を詰め込んだ。 友人の知り合いが、都内にある患者会「子宮・卵巣がんのサポートグループ あいあい」(まつばらけいさん主宰)の講演会でもらったという資料を届けてくれた。 米国国立がん研究所がつくったがんに関するデータベースの和訳。子宮頸(けい)がんはステージ(進行度)ごとに手術や放射線、抗がん剤などによる治療法があると書かれていた。 だが、自分のステージさえ知らない谷川さんには、よく理解できなかった。 資料に載っていた「あいあい」の相談受け付けに電話をかけた。面識のない人と話すのは苦手で緊張したが、治療法選びで悩んでいるとまつばらさんに伝えると、「セカンドオピニオンをとってみてはいかがですか」と勧められた。 紹介された二つの病院に電話してみると、東京大学病院(東京都文京区)放射線科の医師本人と連絡がとれ、会えることになった。 この医師は、谷川さんが取り寄せたがんの専門誌に、子宮頸がんの治療法について書いていた。谷川さんは面談前日、偶然それを読んだ。 記事には、海外では手術よりも放射線治療の方が一般的だとあった。また、放射線だけの治療より、放射線と抗がん剤を併用する放射線化学療法の方が効果は高いとされ、米国では標準治療の一つになりつつあること、東大病院も放射線化学療法を実施していることが紹介されていた。 さらに、手術で骨盤内のリンパ節を取ると、膀胱(ぼうこう)や直腸の機能をつかさどる神経を傷つけることがあり、排尿・排便障害や、歩けなくなるほど足がむくむリンパ浮腫などの重い後遺症が出ることもある、などとあった。 夫、長女と雑誌を回し読みした。3人とも、読めば読むほど放射線化学療法がいいと思った。 翌日。谷川さんは東大病院の地下にある放射線科の前で、どきどきしながら名前が呼ばれるのを待った。 (文・前田育穂)
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がん 選ぶ:下
一方的に「手術でないとだめ」と医師
子宮頸(けい)がんになった谷川翠さん(61)=仮名=は01年、東京都内の病院で手術か放射線治療かの選択を迫られ、東大病院の放射線科医にセカンドオピニオンを求めた。 東大の放射線科医は、20代後半の若さだった。手術の後遺症などについて医師が専門誌に書いた記事を話題にすると、放射線治療にも膀胱(ぼうこう)炎や腸閉塞(へいそく)などの後遺症が出る可能性があると教えてくれた。 この時点で放射線化学療法を受けたいと考えていた谷川さんは、病院選びのポイントを尋ねた。医師は直接は答えず、「あなたがかかっている病院では、婦人科医が放射線治療をしています」と言った。婦人科医が放射線治療をすることに、谷川さんは違和感を覚えた。 治療法を決める日が来た。4月6日。谷川さんは長女と一緒に、検査結果を聞きに最初の病院へ行った。婦人科の診察室に入ると、カーテンで仕切られた狭いブースには座る場所もない。長女と立ったまま、いすに腰掛けている医師と向き合った。 先に口を開いたのは谷川さんだった。「放射線治療にしたいと思います」。すると医師から「検査で腺(せん)がんが出たので、手術でないとだめです」と言われた。 勇気を出して、「他の病院の放射線科の先生の意見も聞きたいので、検査結果のコピーを下さい」と切り出すと、「だめです」と拒まれた。「腺がんと言えば分かる」と言う。長女が「腺がんと言えば分かるんですか?」と念を押すと、医師は「そう。明細胞腺がん」と言い、横文字を書きつけたメモ用紙を谷川さんに手渡した。 「先生、ステージ(進行度)は何でしょうか?」。長女が聞くと、「2b」と答えが返ってきた。谷川さんはよろめきかけ、傍らのカーテンをつかんだ。子宮頸(けい)がんに0〜4期のステージがあることは、この1週間で学んでいた。2bなら、かなり進んでいるのでは――。 思いを察した長女が「2bなら、まだ大丈夫よ」と励ましてくれた。 そんな2人を前に、医師は診察を終えようとしていた。立ち去る母子の背中に、声が飛んできた。 「早く入院手続きをしないと、手術がどんどん後回しになりますよ」 後遺症考え、放射線治療に
東京都の谷川翠さん(61)=仮名=は01年、子宮頸がんの治療で婦人科の医師に放射線治療を希望したが、「腺がんは手術でないとだめだ」と言われた。 4月9日。谷川さんは、セカンドオピニオンを受けた東京大学病院(東京都文京区)の放射線科医を再び訪ねた。 子宮頸がんには組織型によって扁平(へんぺい)上皮がんと腺がんがあり、腺がんの方が悪性度は高いとされる。「子宮頸がんの腺がんには、放射線治療は効かないのですか」と聞くと、医師は「腺がんは数が少なく珍しいですが、放射線治療はできます」と明言した。 ここで治療を受けたいとも思ったが、医師の若さが気になった。手がけた症例数や経験を直接聞くのは失礼な気がして「先生はこのような治療をしたことがありますか?」と遠回しに聞くと、医師はしっかりうなずいた。 それでも決められずにいると、医師は「もし手術を望むのなら、産婦人科医を紹介しますよ」と言った。その姿勢に好感を持った。 結局、東大病院を選んだ。何より東大病院が実施している放射線化学療法を受けたかった。手術より後遺症が軽く元の生活に戻れそうなこと、米国で標準治療の一つになりつつあることが大きかった。「手術でないとだめだ」と決めつけた医師には診察されたくない気持ちもあった。 10日後に入院した。治療期間は9週間。放射線治療では、体外からの外照射と、子宮と膣(ちつ)に挿入した細い金属管の中に遠隔操作で放射線源を入れる腔内照射を組み合わせる。さらに、シスプラチンと5(ファイブ)―FUという2種類の抗がん剤を使うことになった。 治療は5月6日に始まった。外照射では、リニアックという大型装置でおなかや腰の上から放射線をあてる。1回の照射は5分ほどで、ほかの臓器に影響が出ないよう4方向から照射した。 1週目は2種類の抗がん剤の点滴が昼夜続いた。吐き気止めを処方されて食事はとれたが、便秘に悩まされた。 2週目からは肝機能が低下したため5―FUの点滴は中止し、シスプラチンも量を減らした。3週目からは、腔内照射も始まった。 5月下旬、院内の浴室で頭を洗っていたら、髪の毛がごっそり抜けた。抗がん剤の副作用。帯状疱疹(ほうしん)も現れ、谷川さんは一時体調を崩した。 納得の治療、大きな自信に
子宮頸がんになった東京都の谷川翠さん(61)=仮名=は01年5月、手術を勧めた婦人科医のいる病院から東大病院放射線科に移り、放射線化学療法を受けた。 抗がん剤の副作用に一時苦しんだ谷川さんだが、6月に入ると病院周辺の散策を楽しめるほど体力も戻ってきた。 7月11日に退院。MRI(磁気共鳴断層撮影)や細胞診検査の結果、子宮入り口にあった3・5センチほどの腫瘍(しゅよう)はきれいに消えていた。 放射線治療では、お尻の皮膚が日焼けしたように変色したが、3カ月ほどで消えた。最初の性交時に少量の出血があった以外は治療前の暮らしと変わらず、膀胱(ぼうこう)炎や下半身のむくみなどの後遺症も、これまでは出ていない。 驚いたのは、主治医の放射線科医が03年に突然、東大病院を辞めたことだ。だが、谷川さんはそれを機に、放射線科に加えて婦人科でも定期検査を受けることにした。 放射線化学療法を受けたくて放射線科に来た谷川さんだが、子宮がんは本来、婦人科の専門領域。周りの患者も多くは婦人科の診察をへて放射線科に来ており、谷川さんは自分に婦人科の主治医がいないことが気がかりだった。 「子宮・卵巣がんのサポートグループ あいあい」の講演会で講師をしたことがある都内の婦人科医のもとに約2年通った。「両科の専門医に診ていただいて、より安心できました」 7月で退院から丸5年になる。この間、谷川さんは転移や再発がいつあってもおかしくないと考え、人生に悔いを残さないようにと、以前から習いたかった手話を始めた。海外旅行にも初めて行った。健康のため、プールでのウオーキングも毎週欠かさない。ボランティアで「あいあい」の運営も手伝っている。 「充実した5年間でした。放射線化学療法で後遺症が出なかったおかげです。納得のいく治療を選べたことが、大きな自信になりました」 これから子宮頸がんの治療を受ける人たちに、谷川さんはこう助言する。 「婦人科と放射線科、両方の専門医に話を聞き、焦らずによく考えて治療法を決めることをお勧めします。私のような普通の主婦にもできたのだから、誰にでもできると思いますよ」 (文・前田育穂)
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情報編 脳腫瘍
手術中の変形も逃さずチェック
脳腫瘍(しゅよう)にはできる場所や悪性度などによって数多くの種類があり、患者の生存率も大きく異なってくる。 「患者を生きる 22歳の挑戦」で紹介した田端好恵さん(22)=仮名=の脳腫瘍はグリオーマ(神経膠腫<こうしゅ>)と呼ばれるもので、悪性度が高いケースが多い。正常な組織にしみこむように広がるため、完全に切除することが難しい。 腫瘍を多く取ろうとして運動などをつかさどる部分まで切ってしまうと、まひなどの後遺症が残る。逆に取り残しが多いと、再発につながる。各医療機関や医師たちは、腫瘍組織を少しでも大きく、かつ正確に切除するための努力を続けている。 田端さんが手術を受けた東京女子医大(東京都新宿区)では、手術室に設置したMRI(磁気共鳴断層撮影)で手術中に随時、脳の画像を撮影。その上にメスの位置などを刻々と示し、腫瘍の正確な摘出につなげている。 脳は手術中に変形する。手術前に撮影した画像だけだと、いざ摘出しようとしたときに腫瘍の位置が1〜2センチずれていることもある。これを解消するのが手術中に脳を撮影するシステムで、女子医大では00年の設置以降、約300例のグリオーマの手術に使ってきた。医師の経験だけが頼りだった時代は7割程度だった平均摘出率が、約9割に上がったという。手術自体にかかる費用は、通常の脳腫瘍手術と変わらない。 同様のシステムは名古屋大や東海大なども入れている。 田端さんはまた、木沢記念病院・中部療護センター(岐阜県美濃加茂市)で「メチオニンPET」という検査も受けた。最近がん検診などに普及してきたPET(陽電子断層撮影)検査の一種で、メチオニンというアミノ酸が脳の腫瘍に集まりやすい特性を利用している。脳神経外科が専門の篠田淳センター長は「腫瘍の広がりだけでなく、悪性度もわかる。脳腫瘍診断の強力な武器だ」と言う。 ただ、メチオニンPETを行う施設は全国に数カ所しかなく、保険適用も認められていない。中部療護センターの場合、木沢記念病院の患者や女子医大などから紹介された患者ら年約250人に対し、「研究」の一環としてこの検査を行っている。 ●記者のひとこと 大手銀行への就職内定後、脳腫瘍と分かった田端さんは、人事担当者に勇気をふるって病気を打ち明けた。就職がふいになる恐れもあったが、銀行は事情を理解、3カ月に3日程度、抗がん剤治療のため勤務を休むことも認めてくれた。病を患った人の雇用環境は依然厳しいが、病とともに生きる人は少なくない。従業員の闘病を理解する企業が、増えることを願う。 (文・島津洋一郎)
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がん 22歳の挑戦:上
就職内定、直後に脳腫瘍
朝7時過ぎ。通勤ラッシュ前の駅のホームへ、田端好恵さん(22)=仮名=が階段を小走りに上っていく。 4月から奈良県内にある大手銀行の支店で働き始めた新社会人。近鉄線を乗り継ぎ、職場に着くのは毎朝8時、帰ってくるのは毎晩7時、8時になる。「札束勘定」の練習や窓口の仕事で必要な銀行業務検定の勉強、お客様へのあいさつなど、銀行員のイロハをたたき込まれる毎日だ。 「もし何事もなく就職していたら、今ごろ愚痴ばかり言っていただろうな」と思う。 昨年夏、脳に腫瘍(しゅよう)が見つかった。家族は一時、「余命数年」と告げられ、名医を必死に探した。手術を終えて退院したのは今年1月。抗がん剤治療は現在も続いている。 「今は、入りたかった銀行の制服を着て働ける喜びに、幸せを感じています」 頭の内側からこめかみが圧迫されるような、重い感じがする。生理痛とも違う。22歳になって半月足らずの昨年7月初め、それまで経験したことのない、鈍い痛みに気付いた。第1志望の銀行から就職内定をもらった。大学の単位も取り終えた。あとは卒業論文を書くだけだ、と思っていた。 7月末、学生生活最後の夏休みに、母(58)と行った北海道旅行の最中も、頭痛は続いた。ふだんは風邪もめったにひかない田端さんの頭痛を母は気にかけ、「はよ病院いっといで」とせかした。 近所のかかりつけ医を受診すると、CT(コンピューター断層撮影)検査をされた。勤務医時代に神経内科にいた経験のある院長は、健康で片頭痛もない田端さんに、1カ月近くも頭痛が続いていることが引っかかった。 CT画像で右のこめかみの奥に白い影が写った。紹介された近くの病院で、今度はMRI(磁気共鳴断層撮影)検査を受けた。白い影がよりはっきりと写った。 CTとMRIのフィルム持参で県内の総合病院を訪ねると「すぐ入院して下さい」と言われ、驚いた。 約1週間、カテーテルを使った脳の血管造影など、様々な検査を重ねた。血管が編み目のように走る脳の奥深く、言語や運動機能をつかさどる部分のすぐそばに、腫瘍が見つかった。 母の動揺で知る深刻な病
奈良県の田端好恵さん(22)=仮名=は大学4年生だった昨年8月、県内の総合病院へ検査入院した。鈍い頭痛が約1カ月続き、画像検査で脳に白い影が写ったためだ。 精密検査の結果が出た日、病院には母と兄も呼ばれた。3人を前に、神経内科の医師は口を開いた。 「言いにくいのですが……残念ながら、脳腫瘍(しゅよう)です」 「残念ながら」という医師の言葉に、母は動揺して泣いた。兄も涙を浮かべた。悪性脳腫瘍ががんであると知らなかった田端さんだが、医師の沈んだ話しぶりや家族の動揺に病気の重さを感じ取った。 脳神経外科に回され、改めて担当医から「グリオーマです」と言われた。大脳の中に生じる脳腫瘍の一種で悪性の場合が多い。正常な組織に浸潤があり、手術には技術がいる。しかも田端さんの場合、言語や運動機能をつかさどる部分の近くに5センチ程度の腫瘍があり、「手術で完全にとるのは無理」と言われた。部分的に切除し腫瘍を小さくしたうえで、放射線と抗がん剤で治療していくと説明された。 最初は自分のこととは思えず、手術では髪を全部切ると言われたことばかりがショックだった。徐々に「手術すると人格が変わってしまうのではないか」と怖くなった。 自宅に戻ると、お盆で帰省していた千葉県の叔母一家を交えて治療について話し合った。このまま奈良で手術を受けていいものか。脳という場所が場所だけに悩んだ。 結局、叔父の提案で、以前叔父の兄の脳腫瘍手術を成功させた医師がいる大阪府内の病院を受診し直した。「ひょっとしたら、別の病気と言ってくれるかも知れない」 淡い期待は破れ、診断はやはりグリオーマだったが、そちらへの転院を決めた。インターネットや「病院ランキング本」で、脳疾患治療の実績が評価されていたからだ。 9月5日に入院し、悪性度を調べるなど検査目的で腫瘍組織を採る「生検」の手術を9日に受けることになった。 「可能ならば一部切除もする」という説明だったが、田端さんも家族も、開頭までする大手術なのだから、受ければきっと良くなると思い込んでいた。「これ頑張ったら、元気になれるで」。そう励まされながら、田端さんは手術室へ向かった。 (文・島津洋一郎)
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がん 22歳の挑戦:下
望みつないだ返信メール
奈良県の銀行員、田端好恵さん(22)=仮名=は大学4年生だった昨夏、脳腫瘍(しゅよう)と診断された。難手術が予想され、実績のある大阪府内の病院に入院した。 手術は9月9日に行われた。予定の4時間より短く、3時間足らずで終わった。 執刀医から家族への説明では、腫瘍は大きさ約5センチ。場所の難しさに加え、悪性度は4段階のうちの3番目、「グレード3」まで進んでいた。切除できず、検査のため腫瘍組織を採っただけで手術を終えた、とのことだった。 「余命は数年かも知れません」。そう話す医師に、家族は「本人には本当のことを言わないでほしい」と頼んだ。 数日後、田端さんは「グレード2だが、3に近い部分も少しあった」と説明された。腫瘍が摘出できなかったことは不安だったが、放射線と抗がん剤で小さくすると聞き、「命にかかわることはなさそうだ」と思った。 それでも抗がん剤の副作用を聞き、気がめいった。医師の話は難しく、質問を繰り返すと「さっき説明したじゃないですか」などと言われる。食事にもなじめず、約1カ月の入院で体重が8キロ減った。 その頃、兄は腫瘍の摘出手術をしてくれる病院を探していた。会社から帰宅すると毎晩のようにパソコンに向かう。「グリオーマ(田端さんの脳腫瘍の種類)」「グレード3」などのキーワードで医療情報を検索し続けた。 東京女子医大(東京都新宿区)の最先端手術について、テレビで見た親類から教えられたのは9月中旬だった。 手術室内に設置されたMRI(磁気共鳴断層撮影)で、随時撮った脳の像が画面に映し出され、その上に医師が操るメスの位置が刻々と表示される。腫瘍の場所が正確に分かって正常組織を傷つける心配が小さくなり、思い切って切除できるという。 「これだ」。テレビに出ていた脳神経外科の村垣善浩医師に、兄はすがる思いでメールを送った。思いがけず、本人からすぐに返信が来た。 脳腫瘍が完全に取り除ける患者は通常8%ほどだが、女子医大では40%を超す、とあった。「同じくらいの年の女性が当院で手術を受け、のちに出産もしています」。その一文に、兄はこの病院で手術を受けさせたいと思った。 生命 最先端技術に賭けた
田端好恵さん(22)=仮名=の脳腫瘍は昨年9月、大阪の病院で摘出できないと診断された。兄は、最先端設備をもつ東京女子医大での摘出手術を模索した。 女子医大では、脳腫瘍の場所とメスの位置を画像で確認しながら手術ができる。奈良県に住む田端さんと家族に代わり、千葉県の叔母夫婦が10月初め、MRI画像などを手に女子医大を訪ねた。 脳神経外科の村垣善浩医師は、極めて難しいが摘出を試みることができること、手足や言語に障害が出る恐れがあることなどを説明した。 一方、田端さんが入院していた大阪の病院は「どんな病院に行っても手術はできない。渡米しても無理だ」と言い、抗がん剤と放射線治療を主張していた。選択を迫られた家族は、女子医大での手術に賭けたいと、田端さんを退院させた。 だが、本人は転院を拒んだ。「東京は言葉も違うし、遠い。また手術を受けるのも嫌や」。腫瘍の悪性度(グレード)を「3」ではなく「2」と軽めに知らされていた。麻酔から覚める際の吐き気や手術後の処置の痛みなどを、二度と体験したくない思いの方が強かった。 考え直したのは11月、自宅にあった脳腫瘍の本を読んでだった。自分と同じタイプの腫瘍は抗がん剤や放射線だけでの治療は難しく、「グレード2で5年生存率60%程度」「グレード3では20%程度」とあった。田端さんは「グレード3に近い部分も少しあった」と聞いていた。 「私、もしかして5年で死ぬかも知れんの?」。居間にいた兄に尋ねた。沈黙の後、「そうかも知れへんねんで」と答えが返ってきた。 手術しなければ、助からないんだ――。覚悟を決めた。 締め切りを2月に延ばしてもらっていた卒業論文は、12月1日に女子医大に入院するまでにできるだけと、約1カ月で半分以上書き進めた。 手術日の7日。手術室の入り口で、母は涙を流しながら「頑張ってな」と田端さんを抱きしめた。 朝8時半ごろ手術室に入った。終了予定は午後7時だったが、午後9時になっても何も連絡がない。母は何度も看護師に手術の状況を尋ねた。深夜1時過ぎ、ようやく出てきた村垣医師が言った。 「85〜90%は取れました」 治療のたび奈良から上京
奈良県の銀行員、田端好恵さん(22)=仮名=の脳腫瘍は、手術が極めて難しい場所にあった。曲折の末、昨年12月、東京女子医大の先端設備で手術を受けた。 「元気そうで何より。検査結果にも、何も問題ありません。社会人生活はどう?」 連休はざまの今月2日。就職後初めて女子医大を訪れた田端さんに、執刀した村垣善浩医師が話しかけた。 昨年12月に脳腫瘍の85〜90%を摘出。残りは抗がん剤で小さくしていくことになった。抗がん剤は1〜2週間おきに3度続けて点滴し、約2カ月休む繰り返し。2日に今回最初の点滴を受けた後、9日に再び上京し2度目の点滴。今月下旬に今回最後の治療を受ける予定だ。 比較的大きな病院ならどこでもできる。村垣医師は当初、田端さんを診た奈良や大阪の病院に受け入れを依頼したが「よその病院で手術を受けた患者は、何かあった時に責任が取れない」「治療方針が異なる」などと断られた。 結局、治療のたびに、勤めを休んで上京、とんぼ返りを繰り返すことになった。治療翌日は、さすがに副作用の吐き気もあってつらい。「地元で受けられたらいいのですが……」。言葉少なに言う。 就職先の大手銀行には、女子医大退院後の1月下旬、健康診断の際に打ち明けた。抗がん剤による白血球減少など異常は隠し通せない。内定を取り消されるかとも思ったが、人事担当者は「大丈夫です」と言ってくれた。さらに2月、田端さんとともに女子医大を訪れ、治療方針や病状を聞いた上で言った。「安心しました」 闘病の中で多くを学んだ。 約1カ月半過ごした女子医大の相部屋では、自分と同じような若い脳腫瘍患者が、全国から集まっていた。「地元の大きな病院や大学病院で治らないと言われたら、あきらめるしかないと思っていた。でも、今はそういう時代じゃないんだ」と実感した。 大学の卒業式では、東京での手術を勧めた友人の一人が手術直前、京都の寺を10カ所ほども願掛けに回ってくれていたと知った。 「家族や友達が、こんなにも私を思ってくれていた。みんなのためにも幸せにならなければ」。そんな思いを胸に社会人の歩みを始めている。 (文・島津洋一郎)
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情報編 肝臓がん
併用療法、「4割に効果」報告も
C型肝炎などのウイルスが原因になった肝臓がんは、ウイルスが体内に残っている限り、再発を繰り返す可能性がある。治療法はがんの大きさや数によって異なり、多くの選択肢を持っていることが医療機関の実力にもつながる。
この治療法は、大阪大大学院の門田(もんでん)守人教授(消化器外科)が開発した。末期の肝臓がんを患った大学関係者に延命策として試みたところ、がんが消失。そこで、余命2〜3カ月と思われる進行がんの患者55人に実施した結果、24人にはがんが消えたり小さくなったりする効果があった。 00年から併用療法を導入している杏雲堂病院(東京都千代田区)のデータ(05年9月現在)では、214例のうち完全にがんが消えたのは30例。縮小効果があったのは79例。1年後生存率は、効果がなかった人の6%に対し、完全にがんが消えた人は89%だった。 厚労省の研究班も02〜04年、末期患者を対象に、併用療法と5FU単独の治療とで効果を比べる研究をした。明らかな差があったといい、今年の夏ごろに中間報告をまとめる予定だ。製薬業界では、保険適用を目指した治験も始まっている。 ただ、厚労省が未承認であることを理由に、併用療法を行っていることを公表しない病院も多い。日本肝臓病患者団体協議会(東京都新宿区)も、患者からの問い合わせに十分に答えられないでいる。 併用療法が未承認なのは、ウイルス性慢性肝炎などの薬として保険適用されているインターフェロンを、肝臓がんに転用しているからだ。門田教授は「すでに保険適用されている二つの薬を組み合わせた治療法で、未知の薬を使うのとは違う。組み合わせによる新たな副作用の発生は確認されていない。早く認可すべきだ」と訴える。 患者団体協議会も、併用療法の保険適用を求める要望書を厚労省に提出している。 ●記者のひとこと 上川さん夫婦は、肝臓がんと向き合ってきた8年間を「浮いたり沈んだり。ジェットコースターのようだった」という。やっと訪れた平穏な生活に取材が入ることは決して歓迎するものではなかったと思うが、「併用療法で救われた患者がいるという情報が、少しでも誰かの役に立てば」と、応じてくださった。併用療法の研究が進んで保険適用の対象となり、患者にとっても普通の選択肢の一つになる日が来ることを願う。 (文・武田耕太)
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がん 再発との闘い:上
夢見た「日常」取り戻した
MRI(磁気共鳴断層撮影)画像に写った肝臓から、がんはきれいに消えていた。 今年1月12日、広島大学病院(広島市南区)の面談室。市内に住む上川喬さん(62)=仮名=と妻(58)に、消化器内科の相方浩医師(38)は「あんなにたくさんあったがんが、消えました。よかったですね」と声をかけた。 「夢みたいです。私の夢が、実現したんですね」 一言、一言をかみしめるように、上川さんが言う。隣で妻は「ありがとうございました」と深々と頭を下げた。 2年前。上川さんは無数のがんに侵された自分の肝臓の画像を見せられた。ステージは4期。医師から「もう治療法はない」と宣告された。以来、ずっと想像してきた。朝、目が覚めた時、すべてのがんが消えていたらどんなにいいだろう。がんに苦しんだ日々は幻で、突然平穏な日常が戻ってきたらどんなにいいだろうか、と。 そんな願いを実現させたのが、抗がん剤の5(ファイブ)FUと、C型肝炎の治療薬インターフェロンを併用する新しい治療法だった。厚生労働省に承認された治療法ではなく、効果が表れない患者もいる。にもかかわらず、夫婦が「この治療に賭けるしかない」と決意してから、1年9カ月がたっていた。 上川さんの肝臓がんとの闘いは、98年にさかのぼる。 当時、上川さんは団体職員。職場では管理職として仕事を指揮する一方、休日は広島湾で釣りをしたり、広島市民球場にナイター観戦に出かけ、声をからしてひいきのチームを応援したりしていた。長男はすでに社会人として独立し、妻と、社会人になったばかりの長女との3人暮らしを楽しんでいた。 ところが8月、職場の半日ドックで、肝臓に500円玉大の影が見つかった。市内の総合病院で精密検査を受けると、医師に「がんの可能性があるが、手術して中を見てみないとはっきり分からない。手術に耐えられる肝機能もあるし、今のうちに手術しておきましょう」と言われた。 職場には病名を告げないまま、10月に手術。肝臓に写った影は、やはりがんだった。しかしまだ2期で、見つかった腫瘍(しゅよう)はすべて取り除くことができた。 自分ががんになったことは少なからずショックだった。ただ、それよりも、がんが早くに発見され、手術で切除できたことを「幸運だった」と思う気持ちの方が強かった。 約1カ月間の入院後、静養を兼ねて島根県の玉造温泉に家族で旅行した。「命が助かった。今後は少しずつ体力を回復して仕事に復帰できれば」と、前向きな気持ちで妻や娘と話し合った。 ところが、がん細胞は再び上川さんの肝臓に現れた。 00年2月。復帰した職場で事務の責任者として、組織の統合再編に奔走していた頃だ。定期検査で、肝臓の画像にまた影が見つかった。大きさ2センチ足らずのがんが一つだったが、1年半前の手術でがんは治ったものと楽観していたから、冷や水を浴びせられた思いだった。 このときは医師の勧めで、「マイクロ波凝固療法」という治療を受けた。皮膚の上から肝臓内に電極を入れ、電子レンジにも使われているマイクロ波をがん細胞に照射して壊死(えし)させる方法だ。 ■
1時間足らずで終わる治療だったが、この再発によって上川さんは気がついた。自分の血液検査の結果には、いつも「HCV」の欄にマークがついていた。C型肝炎ウイルス陽性。40代の頃に虚血性大腸炎で輸血を受けた際、血液製剤に含まれていたウイルスに感染した疑いがあった。そして、肝臓がんの9割はC型肝炎などのウイルスが原因で、がんを切除しても再発を繰り返すという特徴があることを知った。 「血液にウイルスが残っている限り、肝臓がんは何度でも再発する恐れがあるのか」 じわじわと、不安な気持ちが襲ってきた。 うつ病と二重苦、退職を決断
広島市に住む上川喬さん(62)=仮名=は00年2月、マイクロ波をがん細胞に照射する方法で再発した肝臓がんを治療した。だが、C型肝炎ウイルスにより再発が繰り返される不安に、仕事の悩みが加わり、心は晴れなかった。 団体職員だった上川さんの職場では、不況のあおりで組織の統合再編が進んでいた。上川さんはその事務責任者として、人員削減を伴う再編計画をまとめていた。 ところが、計画案を上司に何度提出してもOKが出ない。一方で部下からは「組織はどうなるのか」「私はこの職場に残れるのか」と不安の声をぶつけられた。やりきれなかったが、誰にも相談できない。夜、眠れなくなった。 耐えきれなくなって心療内科に駆け込んだ。医師の診断は「うつ病」。誰にも内証で通院を続けたが、ある日、手帳に「会社に行きたくない」と走り書きしてあったのを、妻に見られた。 がん再発の不安と、職場での苦痛。二重のストレスを抱えながら、暮らしていけるのか。何日も家族で話し合った。会社員の娘は「もう私たちのためにお金はいらないじゃない。これからは人生を楽しんで」と言ってくれた。 5月、同僚9人とともに早期退職に応じた。56歳。定年まで4年を残していたが、退職金を支えに、がんと向き合って生きることにした。 この決断がのちに生きた。恐れていたがんの再発がその後、繰り返されたからだ。 2度目の再発は02年2月。定期検査で、1センチ大のがんがまた肝臓に見つかった。 ただ、治療法も進歩していた。このときは、皮膚の上から肝臓内のがんに電極を刺して高周波のラジオ波を当て、その熱で焼いた。手術をしないので、体への負担が軽いのはマイクロ波による治療法と同じ。それでいて、より大きながん細胞を壊死(えし)させることができた。 「早期にがんを発見し、そのつどラジオ波で焼いていけば、それほど恐れることはないんじゃないか」と、上川さんは考えた。 だが、そんな認識は3度目の再発で吹き飛んだ。 03年7月。定期検査の肝臓の画像には、がんが20個以上も写っていた。再発までの間隔も2度目より短かった。 がんに対する漠然とした不安が「恐怖」に変わるのが、自分でわかった。 (文・武田耕太)
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がん 再発との闘い:下
絶望の中で知った新療法
広島市の上川喬さん(62)=仮名=に03年7月、C型肝炎ウイルスによる肝臓がんがまた再発した。過去2度の再発では一つだったがんが、今回は20個以上も見つかった。 「今度は抗がん剤を使いましょう」。広島市内の総合病院で、上川さんは主治医から告げられた。 前回の再発では、ラジオ波をがんに当てて治療した。だが、多数のがんに同じことをすると、肝臓に大きな負担がかかってしまう。そこで、がんに栄養を運ぶ肝動脈をふさぐと同時に、抗がん剤を直接がんに注入する「肝動脈塞栓(そくせん)療法」に切り替えた。 しかし、効果はなかった。半年後の04年1月、CT(コンピューター断層撮影)の画像を見せられた上川さんと妻(58)は、息をのんだ。 がんを表す無数の白い影が、肝臓を覆っていた。「夜空の天の川みたい」と妻は思った。上川さんが「いくつあるんでしょうか」と聞くと、医師は「数えられません」。 思わず妻が詰め寄った。 「あとどれぐらい生きられるんですか。1年。2年ですか」。答えはなかった。 生体肝移植という選択肢も示された。だが、千万円単位の費用がかかるうえ、C型肝炎ウイルスが体内にある限り、移植後も再発の恐れは消えないという。「もう治療法はない」と告げられた。 病室に戻り、親しくなった看護師に報告しているうちに涙がこらえきれなくなった。妻も泣いていた。人間の体は、なぜこんなにも無力なのか。悔しくて仕方なかった。 「父さん、私がきっと治してあげる」。夜、妻はメモ帳にそうペンを走らせた。根拠があったわけではない。ただ、そう書きたかった。 自宅に戻った上川さんは、健康食品を口にしたり、インターネットを見たりしながら、絶望の中で毎日を過ごした。ところが2月、上川さんの姉が、ある新聞記事の切り抜きを持ってきた。 大阪大学病院での肝臓がんの治療例が紹介されていた。一般的な抗がん剤の5(ファイブ)FUと、C型肝炎に使われるインターフェロンの併用で、肝臓がんが消えるという。効果があったのは患者40人のうち19人で「半分は効果がなかった」とも書かれていたが、「これしかない」と思った。 記事を手に、主治医のもとへ走った。 劇的に効いた保険外診療
肝臓がんが3度再発した広島市の上川喬さんは、医師に「もう治療法はない」と告げられた。だが04年2月、新しい肝臓がんの治療法があることを知る。 「この治療をして下さい」。記事を手に、上川さんはすがる思いで主治医に頼んだ。抗がん剤の5(ファイブ)FUと、C型肝炎に使われるインターフェロンの併用療法。だが、「厚生労働省に認可されていない治療法。うちの病院ではできない」と断られた。 インターフェロンは肝臓がんの薬としては未承認で、保険が適用されない。このため併用療法は、保険外診療を保険診療に組み合わせる「混合診療」となり、治療費も全額自己負担になる。 それでも食い下がる上川さんに、医師は広島大学病院への紹介状を書いてくれた。広大病院では、茶山一彰教授のチームが学内倫理委員会の承認を条件に、併用療法に取り組んでいた。「効かない人もいますよ」と上川さんは説明されたが、もうこの治療法に賭けるしかなかった。 4月、治療が始まった。5FUを週5回、インターフェロンを週3回注射。それを2週間続け、次にインターフェロンだけを4週間打った。治療費は月40万円を超えた。 これが劇的に効いた。6月までにがんの9割が消えたのだ。その後は別の抗がん剤やラジオ波を使い、がんをじわじわと減らしていった。 「助けて下さい。今度こそ、今度こそ」 病院からの帰り道、上川さんと妻は、近くのお堂に手を合わせていつも祈った。 今年1月12日。肝臓から完全にがんが消えたことが確認された。再発の恐れはなおあるが、現在もその状態は続いている。 上川さんの手帳には、いま大切にしたいこと、これからやりたいことが個条書きされている。笑い、菜園、寺仏めぐり……。「ささやかなことばかりと思われるでしょうけど」と上川さんは笑う。 生きがいにと飼い始めた愛犬を連れて、毎日夕方、妻と一緒に散歩するのも楽しみだ。そんなありふれた時間の積み重ねが幸せなのだと、いまは実感している。 日暮れ時。散歩から家へと帰る川沿いの道に、夫婦と犬の三つの影が伸びていた。 (文・武田耕太)
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食道がん 情報編
成績上がる放射線化学療法
食道は大人の男性で20〜25センチほどの長さがあり、がんの位置によって手術の方法は少し異なる。最も多い胸部のがんでは、食道と周辺のリンパ節を切り取ってから、胃を引き上げて食べ物の通り道を再建する。このため、手術時間は6〜8時間ほどかかり、患者の体力的な負担は大きい。合併症としては、声帯を動かす神経(反回神経)のまひや縫合不全、肺炎などがある。 現在は手術だけするのが標準とされているが、シスプラチンや5FUという抗がん剤を組み合わせた方が治療成績が良いとの報告もある。このため、2種類の抗がん剤を手術の前後に使い、効果を調べる研究が進められている。 ここ数年で広がっているのは、放射線と抗がん剤を組み合わせ、体を切らずにがんをたたく放射線化学療法(通称ケモラジ)だ。国立がんセンター東病院(千葉県柏市)で92年から試みられてきた。以前は体力的に手術が難しい患者向けだったが、成績が次第に向上。同病院の大津敦・内視鏡部長によると、初期のがん(1期)では5年後の生存率が、手術74%(中央病院)に対し、ケモラジ71%(東病院)と、同水準になってきた。現在は、各地のがん専門病院や大学病院などでも手がけられるようになってきた。 治療の一例を挙げると、1週間に放射線治療を5日行い、2日休むことを6週(最後の週は4日休み)繰り返す。1週目と5週目に、2種類の抗がん剤を使う。吐き気や肺炎、白血球や血小板の減少などの副作用がある。 これまでなら治療を断念したような再発に対しても、ケモラジに内視鏡や手術、レーザー治療などを組み合わせる「救済治療」が試みられるようになり、成績の向上が期待されている。点滴薬の5FUの代わりに、TS1という飲み薬の抗がん剤を使った臨床試験も準備が進んでいる。 大津さんは「以前は手術かケモラジかを治療の最初に選ばなければならなかったが、現在は両方の治療法を組み合わせ、よりよい効果を目指すようになってきた」と言う。 ●記者のひとこと がんで手術が必要と診断され「この病院でいいのか」と考える患者は多いはずだ。しかし、主治医との関係、費用や時間の制約などで、遠くの病院への転院を選べないことも多い。佐賀から国立がんセンターに移れた伊東さんは、恵まれていたと言える。 全国でがん拠点病院の整備が進んでいる。安心して治療を受けられる質の高い病院が各地にできることを望みたい。 (文・高山裕喜)
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がん 片道1100キロ:上
車窓に我が家「必ず帰る」
3年前のその日、54歳だった佐賀県小城(おぎ)市の会社員、伊東正美(まさみ)さん(57)は、午前10時に家を出た。カバンには、長男の結婚式の写真を忍ばせた。 最寄りのJR牛津駅から、2両編成の列車に乗り込む。走り出すとすぐに車窓から自宅が見えた。「必ず帰ってくる」と胸の内でつぶやいた。 秋の色に染まり始めた田園の中を10分ほど走り、佐賀駅で特急に乗り換えて博多駅まで約40分。そこから地下鉄で、福岡空港へ。飛行機で羽田まで飛び、モノレールと地下鉄を使ってホテルに着いたのは、午後4時近かった。 移動距離約1100キロ。「旅行」の目的は、国立がんセンター中央病院(東京都中央区)で、食道がんの手術を受けることだった。 ■
03年7月。伊東さんは、食事の時、のどに違和感を感じるようになっていた。東京の大学を卒業後、佐賀に戻って、消防職員を10年ほど。その後は建設会社の営業マンとして働いてきた。 その年の4月にあった県知事選で、ある新顔陣営の運動を手伝った。6人の候補が立つ激戦。伊東さんは前年暮れにいったん会社を辞め、連日早朝から深夜まで会合やあいさつ回りに追われた。 落選後の「後片づけ」がすべて終わり、夏を感じるようになった頃、症状が現れた。 たばこや酒がおいしく感じられない。食べ物がのどを通るときに、ひっかかる感じがする。微熱も続いた。知人に「すぐ大きな病院で診てもらえ」と言われ、県立病院好生館(佐賀市)に行った。 8月17日、外科で胃の内視鏡検査を受けた。画像を見ると、胸近くの食道に腫瘍(しゅよう)らしいものが写っていた。医師は何も言わなかったが、「これは、がんだな」と直感した。 翌日、妻三千穂さん(55)と病院を再び訪れ、米村智弘・外科部長(当時)から説明を受けた。「食道がんです。進行の度合いは2期。お酒を飲んで顔が赤くなりやすいのに、無理に飲んでいる人がかかりやすい病気です」 伊東さんはその瞬間、「自分のことだ」と思った。「選挙に負けて病気にまでなるのか」と、悔しさもこみ上げてきた。同時に、あきらめる年齢ではないとも思った。 「治るんですか」 「今なら何とか」 治療法について説明を受けた。体を切らずに、放射線や抗がん剤を組み合わせる方法も増えてきたこと。転移がなければ、がんを取るには手術が確実なこと。手術の場合、神経が傷ついて声がかすれるなどの合併症が起きる可能性があることも教えられた。 手術では、のどと右脇、腹部の3カ所を切り開く。まず、のどの側から食道の上部を、おなかの側から食道の下部を切り取る。周囲のリンパ節も取り除く。その後、切り取った食道の代わりにするために胃を引っ張り上げ、食道の残った部分につなぐ。右脇からもリンパ節を取る。 大がかりな手術だが、伊東さんなら体力的に問題はないと米村医師は考えた。「全部切り取ります」。伊東さんも「ばっさり切って下さい」と頼んだ。 病院からの帰り道。車の中で三千穂さんは、涙をこらえられなかった。「信じられない。どうなってしまうのか……」。伊東さんに黙って食道がんの専門書を買い、ひとり何度も読み返した。 伊東さんは、元の会社の社長やごく近しい友人の数人だけに、がんを打ち明けた。予期しない言葉が返ってきた。 「手術は東京でした方がいい」「食道がんを軽く考えてはいけない」 東京で? わざわざ? 考えたこともなかった。前年に肺がんで亡くなった父も県立病院に入院したが、治療に不安や不満を感じたことはなかった。東京で入院となれば、収入のない身には費用は痛い。家族の負担も大きい。 一方で、かつて胃がんになった同僚が、東京の大学病院で著名な外科医の手術を受け、職場復帰できるほどに回復したことも思い出した。 とにかく一度、国立がんセンターをこの目で見てみよう――。8月下旬、伊東さんは1人で東京に向かった。 ◇
丁寧な説明に和らいだ不安
地元の県立病院で食道がんと診断された佐賀県小城市の伊東正美さん(57)は03年8月下旬、東京・築地の国立がんセンター中央病院を訪れた。 がんセンターの診療科は「外科」「内科」という分け方でなく、「胃グループ」「血液グループ」などと部位ごとに分かれている。各科が専門にしている治療法を組み合わせ、効果を高めるためだ。伊東さんが訪れたのは、「食道グループ」の加藤抱一医師だった。 内視鏡やCT(コンピューター断層撮影)など一通りの検査は県立病院で受けていた。がんセンターにはその結果を見せれば済むだろうと考えていたが、同じ検査をもう一度するように言われた。 「あんな大変な思いをまたするのか」。内視鏡のことなどを考えると気が重かった。だが、検査を受けているうちに気がついた。 検査機器が見るからに新しい。一つ一つの検査にかける時間も長く、様々な角度から画像を撮るなど丁寧だ。看護師や技師の説明もわかりやすく、不安が和らぐように感じた。「やっぱり、がん患者への接し方が慣れている」。素人として感じる雰囲気の良さが気に入った。 数日間に及んだ検査を終える頃、ここで手術を受けようと決めた。「お願いします」と加藤医師に言うと、その場で「たばこは今すぐやめて下さい」と言われた。手術後の呼吸への影響を避けるためだ。伊東さんは帰り道、背広の内ポケットに入れていたたばこを、ごみ箱に捨てた。 気がかりは、県立病院にどう断るかだった。手術日まで決めておいて東京に転院すると言ったら、今後は診てもらいにくくなるかも知れない。 8月末、県立病院を訪ね、思い切って話した。県立病院で行われる食道がんの手術は年10件弱。その多くを二十数年間担ってきた外科部長(当時)の米村智弘医師は「決めるのはあなたです。経過は教えてください」と言ってくれた。申し訳なさも感じたが、肩の荷が下りた気がした。 手術を前に、一つ縁起を担いだ。がんセンター近くの築地本願寺に頼んで、宿泊所に1泊したのだ。家族には「もし死んだら、葬式の下見をしたことになる」とうそぶいたが、自分にとっての「お守り」のつもりだった。 夜、1人きりの和室は、なかなか眠れなかった。 (文・高山裕喜)
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がん 片道1100キロ:下
大きな出費、命が助かるなら
佐賀県小城(おぎ)市の伊東正美さん(57)は、03年夏に食道がんと診断された。周囲の勧めもあり、東京の国立がんセンター中央病院で手術を受けることにした。 佐賀―東京間の交通費は、電車賃や航空運賃で片道約4万円。国立がんセンターの病室(個室)が1日3万円。家族が宿泊するビジネスホテルは1人1泊8千円。毎日の洗濯代や外食費もかかる――。 自宅から約1100キロも離れた病院での手術・入院は、家族の滞在も含めると大きな負担になる。前年に勤めを辞めていた伊東さんに、お金の不安がないわけではなかった。東京行きに先立って、妻三千穂さん(55)に「かなりかかるけど」と話した。 三千穂さんは、伊東さんががんとわかった時から、納得できる選択をしてほしいと思っていた。迷いはなかった。「退職金もあるし、命が助かるならいいじゃない」 ためていたマイレージを航空券に使ったり、インターネットで安いビジネスホテルを探したりして、少しでも出費を抑える工夫をした。 9月5日、2人で東京に行き、手術について詳しい説明を聞いた。全国から集まった患者が手術の順番待ちをしており、伊東さんは約3週間後の9月29日に決まった。 すでに普通の食事はとれなくなっていた。食べられるのは、おかゆやミキサーで砕いた野菜など軟らかいものがほとんど。70キロあった体重は日に日に減り、10キロ近くやせていた。「早く手術日が来てほしい」。顔には出さないようにしていたが、三千穂さんは夫の姿に焦りを覚えていた。 25日、伊東さんが一足先に東京へ。翌日、三千穂さんが旅行バッグ二つに着替えを詰め込んで上京した。病院から徒歩2分ほどのビジネスホテルを「前線本部」にして病院に通い、伊東さんのパジャマや下着はホテルなどのコインランドリーで洗った。 手術の前々日。翌日は下剤でおなかの中を空にしなければならない。さらに手術が成功しても術後1週間は食べ物も水も飲むことはできない。 「最後の晩餐(ばんさん)を楽しもう」。夫婦で、病院近くにある築地市場に出かけた。 うどんと海鮮丼、アスパラのいため物を頼み、2人で分け合った。伊東さんは、小皿に移して一口ずつ、ゆっくりと味わった。 ◇
つらさ癒やした術後のケア
佐賀県小城市の伊東正美さん(57)は03年夏、食道がんが見つかった。納得できる治療を求め、手術は東京の国立がんセンター中央病院で受けることにした。9月29日午前8時過ぎ。伊東さんは妻三千穂さん(55)と息子夫婦、娘に見送られ、手術室に向かった。三千穂さんには、院内で通じるPHSが連絡用に渡された。 執刀医は「食道グループ」の加藤抱一医師だった。中央病院では、年130例前後の食道がんの手術を3人の医師が受け持っている。そのうちの一人だ。年間の症例数が10足らずの病院が多い中で、その経験の豊富さは圧倒的だ。 手術が始まると、三千穂さんらは病院の展望レストランやロビーで過ごした。窓の外には秋晴れの空が広がり、お台場が見渡せた。伊東さんのがん告知から数週間、東京と佐賀を往復する中で続いていた緊張がふと途切れ、三千穂さんは疲れを感じた。長女らの勧めで一度ホテルに戻り、1時間ほど横になった。 手術終了を知らせるPHSが鳴ったのは日も暮れかかった頃だった。手術時間は6時間35。加藤医師から事前に聞いていた通りだった。ストレッチャーで運ばれてきた伊東さんには、笑顔があった。 手術後、状態が安定するまでは食事も水も禁じられ、栄養は点滴でとった。術後管理室で体のあちこちに管がつけられ、痛みもあって体を起こすのがつらい。難関を乗り越えた喜びは、すぐ薄らいだ。 「もう、おらんでもええ。帰れ!」。付き添いの三千穂さんに当たった。言ってから「しまった」と思うが、数時間たつと、また繰り返した。 1週間ほどして個室に移ると、落ち着きを取り戻した。佐賀からも連日、見舞客が訪れるようになった。合間に、医師たちが代わる代わる様子を見にくる。せき込むと看護師が駆けつけて、たんがうまく切れるように背中をさすってくれる。きめ細かなフォローが頼もしかった。「やっぱり、この病院でよかった」 10月18日、退院。病院の売店で買ったつえをついて歩いた。飛行機で席に着くと、右脇を切った跡が痛み、おなかの傷でシートベルトもできない。毛布を腰に挟み、背中を丸めた格好で羽田を離れた。 次の上京は11月の検査。その前に、地元でのリハビリ生活が始まろうとしていた。 ◇
東京と地元、2人の「主治医」
佐賀県小城市の伊東正美さん(57)は03年9月、食道がんの手術を東京の国立がんセンターで受けた。経済的に厳しかったが手術は無事終了、地元に戻った。 手術後のリハビリは、自宅から車で15分ほどの「ひらまつ病院」で始めた。脇腹やおなかを切った後遺症があるため、理学療法士と一緒にマシンを使い、手足の運動をした。近くの温泉にも通った。 妻三千穂さん(55)の手料理が楽しみだった。三千穂さんは、食道がんの手術後の食事についてがんセンターがまとめた冊子を参考に、のみ込みやすい料理を作った。 失敗もあった。退院を祝って好物の中華料理を食べた時だ。最初は一口ずつ注意して食べていたが、知人が目を離したすきに揚げ物などをかき込んだ。帰宅後、強い吐き気で身動きできなくなり、救急車で県立病院に運ばれた。 1人で近所の山に登り、疲れて動けなくなったこともある。携帯電話で知人に連絡して助けてもらい、医師や家族に「以前とは違う体だと自覚して」としかられた。 そんな経験を重ね、手術で治してもらった体を維持することが、周囲への恩返しだと思うようになった。 04年4月、かつて勤めていた建設会社に復職。今は営業部長として出張もこなす。通信販売で取り寄せた深層水のペットボトル数本を、いつもカバンに持ち歩く。健康にいいと考え、飲食店でも必ずこの水を飲むようにしている。 東京での手術から2年半。今も3カ月に1度は上京し、国立がんセンター中央病院で主治医の加藤抱一医師の診察を受けている。 手術後の経過は、がんを見つけてくれた県立病院の米村智弘・外科部長(当時)にも折に触れて報告する。偶然にも米村医師は、県立病院退職後、リハビリに励んだひらまつ病院の院長に就いた。 東京と地元の両方に、自分の病気を知る医師がいる。伊東さんは「主治医が2人いるようなもの。恵まれている。お金などの負担は大きかったが、家族の理解に助けられた」と振り返る。 4月12日、がんセンターで診察を受けた。結果は今回も「問題なし」。携帯電話で三千穂さんに伝える声に、うれしさがにじんだ。 (文・高山裕喜)
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乳がん 情報編
ホルモン療法、選択の幅広がる
乳がんの治療には、手術、抗がん剤、放射線に加え「ホルモン療法」がある。ホルモン療法の対象となるのは、がん細胞が女性ホルモンによって増えるタイプの患者で、乳がん患者の約7割を占める。女性ホルモンの生産や働きを抑えるため、薬を飲んだり注射を打ったりする。 「患者を生きる 余命を知って」で紹介した橋本由江(よしえ)さん(55)も手術後、再発を防ぐために「タモキシフェン」という薬を飲んだ。 「この薬は、ホルモン療法の第一選択肢です」と、筑波大乳腺甲状腺内分泌外科の坂東裕子講師は説明する。 タモキシフェンを5年間飲んだ人と、飲まなかった人の15年後を比べた臨床試験では、再発率がそれぞれ33%と45%、死亡率は26%と35%と、明らかに飲んだ人に効果がみられた。日本でも25年間使われてきた実績がある。ただ、子宮体がんのリスクを高める副作用がある。
最近は、閉経した女性に限っては「アロマターゼ阻害剤」と呼ばれる薬の方が効果がある、という臨床試験の結果が相次いで出ている。 閉経後の女性は、それまで女性ホルモンを作っていた卵巣機能が低下する。その代わりに脂肪組織などで女性ホルモンが作られるようになり、同剤はその働きを抑える。 アロマターゼ阻害剤にはアナストロゾール(商品名アリミデックス)、エキセメスタン(アロマシン)、レトロゾール(フェマーラ)の3種類がある。タモキシフェンとの比較では、それぞれ再発リスクが14%、32%、19%低下した。日本ではこれまでレトロゾールは使えなかったが、間もなく保険適用される。 ただ、アロマターゼ阻害剤は骨粗鬆症(こつそしょうしょう)のリスクを高めるほか、物忘れなど認知障害の副作用も報告されている。長期にわたる体への影響もわかっていない。 東京都立駒込病院の戸井雅和・乳腺外科部長は昨秋、ホルモン療法を受けている患者101人を対象に、副作用の実態を調べた。その結果、アロマターゼ阻害剤を飲んでいる人の87%が「指のこわばり」を挙げ、「血圧変動」を気にしている人も21%いた。このほか、めまい、吐き気など様々な症状が挙げられた。 戸井さんは「ホルモン療法は抗がん剤に比べて副作用が少ないと言われ、医師の関心も低かった。この調査で初めて、これだけ多くの人が悩んでいることに気づいた。今後は一人ひとりに合った治療が必要だろう」と話している。 ●記者のひとこと 昔に比べれば、患者が医師にものを言いやすい雰囲気はできてきたと思う。でも、いざ医師を目の前にすると、言えない。普段から医療を取材している私も、患者側の立場になったとき、橋本さんと同じ思いをした。そこには、圧倒的な知識の差、生殺与奪の権を握られているという思い、限られた診療時間など、色々理由がある。医師の側はせめて、こういう思いで患者が診療に臨んでいることに、気づいて欲しい。 (文・岡崎明子)
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がん 余命を知って:上
「逃げたい自分」との闘い
抗がん剤治療のため入院していた病室で、愛知県岡崎市の主婦橋本由江(よしえ)さん(55)は、主治医に詰め寄った。 「この間、先生は私に『完治はない』と言ったでしょう。どういうことですか」 「治らない、ということです」 「つまり、死ぬと言うことですか」 「そうです」 自分の乳がんの状態が分からずにいた橋本さんは、前回の治療の際、主治医に本当の病状を聞いてみた。返ってきたのが「完治はない」という言葉。この日、その意味を確かめて初めて、がんが末期だったことを知った。 「あと1、2年ということはないですよね」 「ないよ」 「じゃあ、3年は」 「……」 医師は横を向いたまま、何も答えない。昨年10月下旬の夜のことだった。 橋本さんは01年5月に、岡崎市民病院で乳がんの手術を受けた。がんは3年後、肝臓に再発・転移。それからは入退院を繰り返しながら、抗がん剤治療を続けていた。 最初の入院のときからの主治医が、木村次郎医師(53)だった。柔らかな物腰で「大丈夫ですよ」と励ましてくれる姿勢に、安心感を覚えた。ところが、治療を重ねても病状は詳しく分からず、「大丈夫」と言われる。一方で体調はどんどん悪くなる。橋本さんは、次第にいらだちを募らせていった。 木村医師が病状をはっきり説明しないのには理由があった。 木村医師は言う。 「患者さんに何でもポンポン言えれば楽です。でも、なるべく患者さんが生きる希望を失わないように、と考えると、ありのままは話せない。もちろん、患者さんから聞かれれば答えますが」 橋本さんはそれまで、自分の病状について医師に説明を求めたことがなかった。 乳がんを告知された直後、当時大学生だった長男の茂徳さんと一緒に、乳がんに関する本を探しに書店に行った。だが、茂徳さんから「本当に読みたいの? 耐えられる自信ある?」と聞かれて、買えなかった。それきり、自ら進んで情報を集めようとは思えなくなった。 だから、がんには病期(ステージ)があることを知らなかった。肝臓への再発・転移を知った時も、それが何を意味するのか分からなかった。「再発・転移すると、完治することはないんだってよ」と同室の患者から聞かされても、確かめられなかった。 月1回、脱毛や吐き気などの副作用に耐えつつ抗がん剤治療を受けたが、自分がどういう状況にあるのか分からない。がんに変わるかもしれない腺腫が胃に見つかると、不安はさらに募った。 「今度こそは本当のことを聞こう」。診察や入院のたびに聞きたいことをメモに書き、木村医師に会う前、口に出して練習した。でも、また「大丈夫」とはぐらかされるのではないか、最悪のことを言われたらどうしよう、と思うと、言い出せなかった。 「患者はねぇ、医師のため息、目の動き、一つひとつが気になる。だけど、怖くて本当のことは聞けないんだよ」 ■
がんが末期だと知った昨年10月の夜、橋本さんは木村医師に初めて本心をぶつけた。「抗がん剤を休憩して旅行に行きたい。おいしいものも食べたい。最新のがん検査も受けたい」言葉通り、母(81)と娘(26)と3人で泊まりがけの旅行を楽しんだ。名古屋港の「イタリア村」にも遊びに行った。木村医師に紹介状を書いてもらい、早期がんの発見に有効といわれる最新装置PETの検査を名古屋市の病院で受けることもできた。 「言いたいことを言える患者」にやっとなれた、と思う。右胸のしこりに気づいたのは99年。以来ずっと橋本さんは、がんと向き合うことから逃げようとする自分の心や、家庭環境とも闘っていくことになる。 誰にも言わず2年過ごした 愛知県岡崎市に住む主婦、橋本由江さんが右胸の異変に気づいたのは、99年4月だった。入浴していると、白い皮膚の下に紫色の小さな塊が透けて見えた。1センチほどのしこりがある。乳首の周りには、かゆみもあった。 「乳がん?」 とっさに、入院や手術の費用のことを考えた。三つ年上の大工の夫は収入が安定せず、貯金を崩しながらの生活だった。何十万円と費用がかかったら、とても払えない。しかも夫は、一人では何の家事もできない。何日も家を空けるわけにはいかない、とも思った。 「乳がんでは死なない」。そう自分に言い聞かせて、普段は考えないようにした。それでも生理の前になると右胸が痛んで、しこりの存在を意識させられる。「怖い」と思いつつ、家族の誰にも言わないまま2年が過ぎた。 01年4月、看護師になったばかりの長女と一緒に風呂に入った。「ちょっとここ、触ってみてくれる?」。看護学校で触診の仕方を習っていた娘は、橋本さんの右胸に触れて驚いた。「これ、なに? お医者さんに行って」 すぐに翌日、近所のかかりつけ医院に行った。医師はたまたま乳がんの専門医。胸に触れた途端に「乳がんだと思う」と言われ、乳房X線撮影(マンモグラフィー)を受けた。現像を待つ間、近くに住む母親に電話して来てもらい、2人で医師の説明を聞いた。「乳がんです。たぶん小さくない。すぐ岡崎市民病院に行ってください」 体は震えないのに、口元がガタガタ震えた。初めて「死」を意識した。 「これで死んだら、私の人生、何だったんだろう」 夫は昔気質で、気に入らないことがあるとすぐに手が飛んできた。19歳で結婚した橋本さんは約30年間、それに耐えてきた。幸せな生活だったとは、あまり思えなかった。 そのままタクシーで岡崎市民病院に行き、外科の木村次郎医師の診察を受けた。柔らかい物腰。丁寧な話し方。包まれるような感じがして、安心した。しこりの内容を調べる細胞診検査を受けて、帰宅した。 乳がんのことを夫に話すと、「どれだけおれに迷惑かけるんだ」となじられた。 つらくても、この人の背中に抱きついて泣くことはできないんだ、と覚悟した。 (文・岡崎明子)
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がん 余命を知って:下
母も乳がん、看病に疲れ果て
愛知県岡崎市の橋本由江(よしえ)さん(55)は99年、胸にしこりを見つけたが、経済的な事情もあって放っておいた。精密検査を受けたのは、01年4月だった。 岡崎市民病院で受けた精密検査の結果は、やはり乳がんだった。5月3日、主治医の木村次郎医師が病状を説明。橋本さんは、看護師になったばかりの長女と大学生の長男、夫の3人と聞いた。 がんの大きさは約2・5センチ。乳房を残す温存手術ができる状態だった。「乳がんは再発することがあるので、手術後も検査しながら様子を見ます」と言われた。 自宅に戻ると、酔ってくだを巻く夫を前に、長女が「私が支えるから、できるだけの治療をして」と言ってくれた。大工の夫は収入が不安定で家計も苦しい。長女には「母は手術を拒むのではないか」との不安があった。 手術と入院には、約20万円が必要だった。高額な医療費が払えない人のための市の貸付制度を利用するなど、橋本さんは入院前日まで費用の工面に奔走した。税金の支払いなどの用事もすべて自分で済ませてから入院した。 5月10日に手術。約2週間で退院した。リンパ節への転移はなかった。女性ホルモンによって増殖するがんだったので、女性ホルモンを抑える錠剤「タモキシフェン」と、30回の放射線治療を併用して、再発を防ぐことにした。 岡崎市民病院には放射線施設がない。そこで6月下旬から、同じ市内にある愛知県がんセンターに通った。1日1回、数分間の照射。それでも副作用で体がだるくなった。 このころ、母親にも乳がんが見つかった。橋本さんの乳がんに不安になり、検査を受けたことがきっかけだった。木村医師のもとで乳房の全摘出手術を受けた。 がんセンターで放射線治療を受けた後、岡崎市民病院に行って母の世話をする。夕方に帰宅して、いつも通りに家事をこなす。疲れ果てて手を抜くと、夫に怒られた。 タモキシフェンの副作用で、肝機能の値が異常に高くなった。再発予防のためには5年間飲む薬を、木村医師は数カ月でやめることにした。ほかの抗がん剤も試さなかった。 「リンパ節への転移もないし、それほど再発の心配はない」と判断した。 だが、その予想を裏切って、がんは再発・転移した。 ◇
唐突に告げられた転移
愛知県岡崎市の橋本由江さんは01年5月の乳がん手術後、放射線治療とホルモン療法を受けた。しかし副作用が強く、ホルモン療法は中止する。 手術後、橋本さんは4カ月おきに岡崎市民病院で血液の定期検査を受けた。検査結果はもらっていなかったが、主治医の木村次郎医師の「大丈夫ですよ」という言葉に、安心していた。 04年5月、3年検診の時だった。4カ月前の前回検査で71キロあった体重が、56キロに減っていた。 「先生、私、やせたでしょう」「そういえば……」 3年検診だったので、血液検査に加えてCT(コンピューター断層撮影)検査も受けた。すると、肝臓の画像に影が見つかった。大きさ3・5センチと1・5センチの腫瘍(しゅよう)だった。 「転移です。化学療法をしましょう」。木村医師から告げられた。唐突だった。 その瞬間、不信感を抱いた。「今までずっと『大丈夫』と言っていたのに、何で? どうして予兆を見抜けなかったんだろう」。木村医師は、がんが再発・転移する可能性は低いと考え、4カ月ごとの定期検査では、超音波(エコー)などの画像検査はしてこなかった。 閉経後の女性に用いるアロマターゼ阻害剤を使ったホルモン療法に加え、「タキソール」を使った抗がん剤治療が始まった。副作用で髪の毛が抜け、手足の筋肉や腹部がけいれんするようになった。 数カ月おきにMRI(磁気共鳴断層撮影)検査を受けた。だが、木村医師から説明を受けても、橋本さんにも、付き添っていた看護師の長女にも病状はよくわからない。悶々(もんもん)とした気持ちが続いた。 05年4月、車で病院への送り迎えをしてくれた長男が家を離れることになり、通院回数が少なくて済む「タキソテール」という抗がん剤に変えた。今度は、下痢や吐き気に悩まされるようになった。 5月には、自宅で胃の激痛に襲われた。病院で胃カメラをのむと、がんに変わる可能性もある腺腫が見つかった。 「乳がんと肝臓がん、加えて、胃がんとも向き合わなければならないのだろうか」 精神的に追いつめられるようになったのは、このころからだ。「私は最悪の場合、どうなるの」と木村医師に初めて自分の疑問をぶつけたのは、その年の9月だった。 ◇
「輝け私の命」、体験つづる
乳がんの手術から3年。橋本由江さんに04年春、肝転移が見つかった。05年には胃がんの可能性も加わる。精神的に追いつめられた橋本さんは、主治医に病状を問いただした。 「完治はありません」 05年9月、岡崎市民病院の木村次郎医師(53)にそう告げられた。余命が数年であることも知った。だが、自らのがんや主治医に向き合えたことで、「もう先生の言葉の裏を読もうと悩まずに済む」と気持ちはむしろ楽になった。今は「残りの人生は思い通り生きたい」と考えている。 今月、木村医師に紹介状を書いてもらい、最先端装置のPETによる検査を受けた。14日に出た結果では、肝臓の腫瘍(しゅよう)は画像上はほとんど消え、ほかの臓器への転移もなかった。 「抗がん剤はしばらく中止してもいいと思いますよ」と木村医師に言われた。 大工の夫(58)も変わった。 「今度暴力をふるわれたら離婚する」。度重なる仕打ちに耐えかねた橋本さんは、夫と約束し、証文代わりに離婚届を書いてもらった。がんが再発した頃だ。それから、夫が少しずつ家事を手伝ってくれるようになった。 今では夫が夫婦2人分の夕飯の支度をし、洗濯物をたたみ、洗い物もする。抗がん剤の副作用で橋本さんが激しい下痢のときは、黙って汚れを掃除してくれる。「家に帰ってくるなり、『大丈夫?』って顔をのぞきこむんですよ」と橋本さんははにかむ。 名古屋市に住む看護師の長女(26)も、大きな支えだ。年間50万円以上かかる治療費を負担してくれている。体を楽にと、食器洗い機や全自動洗濯機も贈ってくれた。 長女は「母にはもっと、甘えたり頼ったりして欲しい」と話す。そんな娘に橋本さんは、自分の最期をみとってエンゼルケア(死後の処置)をして欲しいと伝えている。 最近、パソコンで自分の闘病記を書き始めた。タイトルは「輝け私の命」。乳がんの患者会「イデアフォー」にも入り、メーリングリストにも体験をつづっている。 「はじめはオロオロしていてもいい。でもいつかは、自分で立たなきゃ駄目なんだよ」。がんと闘っている患者たちにそう伝えたくて、今日もパソコンに向かう。 (文・岡崎明子)
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がん 情報編
末期の在宅ケア、支援制度始まる
末期がんなどの人が最期まで自宅で暮らせるように支える仕組みが、在宅ホスピスケアだ。「患者を生きる 家族と」で紹介した鈴木歩美さんの場合、訪問看護師が自宅を訪ね、医師も往診したが、主役は夫や両親など家族だ。在宅ケアに携わってきた「ホームケアクリニック川越」(東京都墨田区)の川越厚(こう)院長は「他人にお任せではなく、生と死を自分たちに取り戻すのが在宅ケアです」という。 末期がん患者が在宅で心地よく過ごすには、痛みへの対応が大切になる。痛みが強い場合はモルヒネの飲み薬などを使う。モルヒネに不安を感じる人もいるが、詳しい医師の指示通りにきちんと使えば、副作用も少なく、痛みも十分抑えられるという。 在宅ケアはチーム医療だ。川越さんのチームは医師2人、訪問看護師9人、理学療法士1人、ボランティアコーディネーター1人。常時約20人の患者を担当し、24時間、往診などの対応をする。 制度面からの支援も始まっている。今年度からの診療報酬改定で、24時間対応の診療所を特別扱いする「在宅療養支援診療所」が新設された。また、介護保険を利用できるのは原則65歳以上だが、末期がん患者は40歳以上で利用できるようになった。 医療費は公的医療保険が使える。訪問回数などによって変わるが、在宅療養支援診療所で医師往診と訪問看護が計週4回以上で、一般的な3割負担なら月約15万円を支払うことになる。高額療養費制度で自己負担限度額(所得などによって変わるが目安は月7万2300円)を超える分は後から払い戻しがある。 病院を出て自宅に帰りたいと思っても、どこに相談したらいいか分からないことが多い。病院によっては在宅ケアに熱心な診療所と連携しているので、主治医や病院の患者相談室、地域連携室などに尋ねてみるといい。末期がんの在宅ケアデータベース(http://www.homehospice.jp)で、近所の医療機関を探すこともできる。 ●記者のひとこと 末期がんになっても、在宅ホスピスケアを受けながら、自分の責務を果たした人たちがいる。お経を唱えて寺のお勤めを続けた住職。最後の作品を描き上げた画家。歩美さんも娘に勉強を教えるなど母親の役目を果たした。家族の愛情に支えられ、亡くなる直前まで生き生きと輝いた人生を送った。残念ながら在宅ケアに携わる人がまだ足りない。これから、もっと増えてほしい。 (文・浅井文和)
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がん 家族と:上
日記の表紙に「絶対勝利」
「ホスピスに入ったらどうですか」と、医師は言った。 「というと、もう助からないということですか」 東京都中央区の病院の一室。問いかける家族たちを前に、医師は黙り込んでしまい、何も答えなかった。 東京都江東区に住む主婦の鈴木歩美さんは02年3月、ホテルで食べた食事を吐いた。息苦しさに襲われ、救急車で病院へ。内視鏡検査をしたところ、十二指腸にがんが見つかった。4月に手術。がんは取り除かれて7月に退院できたが、下腹部の痛みが治まらなかった。検査の結果、卵巣に転移したがんが見つかった。 卵巣のがんを取っても、別の場所にまた転移が見つかる可能性が高い。完治が難しいなら、あえて再手術するのではなくホスピスに入った方がいいのではないか――。医師の言葉はそういう提案だった。02年9月のことだった。 「それから私たちは納得のいく医療をしてくれる病院を求める『がん難民』になりました」と、夫で会社員の正治さん(41)は振り返る。 結婚して9年。歩美さんは当時、36歳だった。娘の愛梨ちゃんは4歳。その春、幼稚園に入ったばかりだった。 「ここであきらめるわけにはいかない」 家族全員の思いだった。鈴木さん夫妻と、近くに住む歩美さんの両親の瀬尾儀市さん(73)、紀美子さん(65)の4人は、治療してくれる病院を必死になって探した。 最初の病院に紹介状を書いてもらい、鈴木さん夫妻と儀市さんは、がんの専門病院に相談に行った。しかし、やはり答えは「手術できません」。治る見込みを尋ねると、医師は言った。 「私に『治る』と言ってほしいのですか。答えは、『治りません』です」 ショックのあまり、歩美さんはその場で立ち上がることもできなくなった。心を落ち着かせるケアを1時間ほど受け、ようやく自宅に戻った。 大学病院に相談に行っても答えは同じだった。わらをもつかむ気持ちで、さまざまな民間療法も試した。 「癌研病院がいいんじゃない?」。ある日、当時東京都豊島区にあったこの病院の評判を、紀美子さんが聞いてきた。儀市さんは最初の病院に行き、「もう1枚、紹介状を書いてください」と頼んだ。 「もう専門の病院で『手術できない』と言われているんでしょう」。医師は渋った。儀市さんが強く求めて、やっと書いてもらえた。 癌研病院の医師は「何とか助けるために挑戦したい」と言ってくれた。ようやく聞けたその言葉に、4人は思いを託した。 癌研病院はチーム医療を重視する。患者の治療方針は、外科や内科などさまざまな専門分野の医師が集まる「キャンサー・ボード」という検討会で話し合って決める。歩美さんの場合、この検討会で「手術をしても効果がないのではないか」という厳しい意見が出た。 十二指腸がんは患者数が少ない珍しいがんだ。標準的な治療法さえ定まっていない。抗がん剤治療は大腸がんに準じて行うと癌研病院は決めているが、どれだけ効くかは分からない。医師にとっても治療は手探りだった。分からないから撤退するか、分からないから挑戦するか。医師たちは難しい選択を迫られた。 卵巣は手術で取れる状態だ。本格的な抗がん剤治療も、まだやっていない。「患者さんは30代で、幼い子どももいる。やれることはやってみよう」。主治医の水沼信之・化学療法科副部長らは、卵巣を摘出する手術をしようと決断した。 10月21日、歩美さんは癌研病院に入院。この日から、A5判の小さな大学ノートに日記をつけ始めた。表紙にボールペンで、勢いよく「絶対勝利宣言」と書いた。 手術を前に記した。 「一時は見捨てられたかと思いましたが、どうにか少し光がさしてきたように思えます。本当に感謝です」 新薬に賭けた最後の望み 東京都江東区の主婦鈴木歩美さんが癌研病院(当時東京都豊島区、現在は江東区に移転)に入院すると、夫正治さん(41)は、毎日のように会社帰りに病院を訪ねた。デートの思い出など2人で懐かしい話をしていると、歩美さんも楽しい気分になれた。 02年11月。卵巣のがんを取る手術が迫っていた。十二指腸がんからの転移が見つかって2カ月。癌研病院に受け入れてもらうまでに、治癒の見込みが薄いと、複数の病院で手術を断られていた。 入院時に「イヤだー」と泣いた4歳の娘愛梨ちゃんが手術前日、見舞いに来た。何度もキスしながら「ママがんばってね」と励ましてくれた。 「愛梨のためにガンバラなくちゃ。こんなに小さい心を痛めてくれてるのだから」 入院の日からつけ始めた日記に、歩美さんは記した。 手術で卵巣は取れた。12月に歩美さんは退院。その後は通院しながら再発を防ぐための抗がん剤治療を受けた。 翌03年、親子3人は時に歩美さんの両親も加えて旅行や行楽を楽しんだ。ディズニーランド、長野県蓼科温泉、ハワイ……。幸せな年だった。 だが04年5月、MRI(磁気共鳴断層撮影)検査で下腹部に転移がんが見つかった。手術したが、1年後の05年3月、また転移が見つかった。再び手術。今度はがんが腸や腹膜など10カ所以上に及び、取り切れなかった。 再手術の3日後、渡米し米国臨床腫瘍(しゅよう)学会に参加した主治医の水沼信之さんは、米国でも有数のがん専門病院、テキサス大学MDアンダーソンがんセンターで活躍する旧知の医師に教えを求めた。 「十二指腸がんの患者がいるんです。最適な抗がん剤治療は何でしょうか」 答えは、日本では発売されたばかりの新薬オキサリプラチンなどを使う治療法。大腸がんでは延命効果があるが、十二指腸がんでは癌研病院も未経験の薬だった。 6月、最後の望みをかけた治療が始まった。しかし、効果がなく中断。7月には腹部のがんが大きくなって腸をふさぐ腸閉塞(へいそく)になり、歩美さんは食事がとれなくなった。 「絶対勝利宣言」と表紙に書いた日記を、歩美さんはつけなくなった。父の瀬尾儀市さんは「もう治すための医療ではないことは、本人も分かっているな」と思った。 (文・浅井文和)
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がん 家族と:下
大切な時間を娘のそばで
東京都の主婦鈴木歩美さんは36歳だった02年、十二指腸がんで手術を受けた。04年から次々と転移が見つかり、手術を繰り返す。期待を寄せた最新の抗がん剤治療も、効果はなかった。 大型の台風が関東に接近していた。05年8月25日夜。吹き荒れる風雨の中、歩美さんが入院する癌研有明病院(東京都江東区)に向かう夫正治さん(41)と父の瀬尾儀市さん(73)の心は重かった。 2人は前日、墨田区にある「ホームケアクリニック川越」を訪ねた。終末期を迎えた人の在宅ホスピスケア専門の診療所。歩美さんの治療に打つ手がなくなった癌研病院から、ここで今後のことを相談するように言われていた。 正治さんらの話を聞いて、川越厚(こう)院長は尋ねた。 「歩美さんのがんは治ると思いますか」 「治そうと思っています」と、正治さん。 「治るか、治らないか、病院の先生にもう一度確かめてきてください」 少しでも治る望みがあるのなら治療してほしい。家族はそう願っていた。だが、在宅ホスピスが目指すのは治癒ではなく、死が迫る患者の苦痛を緩和するケアだ。現実を受け入れてもらう必要があると川越さんは考えたのだった。 癌研病院に着いた正治さんたちは歩美さんも交えて、3人で主治医の水沼信之・化学療法科副部長に会った。 水沼さんは言った。 「病院にいると、家族と過ごす時間がどんどん減ってしまいます。貴重な時間を、自宅で大切に過ごされてはどうでしょうか」 「余命はどれくらいでしょうか」 「おそらく年を越せないでしょう」 儀市さんは「先生がそこまで言うのなら、もう仕方ない」と思った。限られた時間を一緒に過ごそう。家族は決断した。2日後、診療所の川越さんを再び訪ね、「お願いします」と伝えた。 02年10月から入退院を繰り返した癌研病院で、歩美さんの枕元には、娘愛梨ちゃんの写真や愛梨ちゃんの描いた絵がいつも飾られていた。「歩美さんは、お母さんとして、居るべき場所に戻るのだ」と水沼さんは思った。 9月5日、歩美さんは退院した。新しい生活が待っていた。 きれいなお母さんでいたい 転移した十二指腸がんは抗がん剤治療でも消えなかった。39歳の鈴木歩美さんは05年9月に退院。在宅ホスピスケアを受けながら、家族と過ごす道を選んだ。 新しい生活は、東京都中央区にある高層マンションの22階で始まった。歩美さんの両親に来てもらいやすいようにと、近所に借りかえた。 南東向きの寝室の窓からは心地よい朝日が差し込む。ベランダからはその年の春に1年生になった娘愛梨ちゃんの小学校が見下ろせ、子どもたちのはしゃぐ声も聞こえてくる。学校に行っている間も、娘を身近に感じられた。「病院から戻って、本当に良かった」。歩美さんは実感した。 母親としての姿も取り戻した。愛梨ちゃんが学校から帰ると、勉強をみた。 「この字の、このはね方は違うでしょ」。見る目は厳しかった。愛梨ちゃんがピアノの練習をさぼればしかった。「夫は愛梨に甘いから、私が厳しくしなきゃ」。親しくなった訪問看護師の小林友美さんにそう言った。 胸には、点滴で栄養をとるための管が入っていた。がんが大きくなって腸が詰まり、食事ができなくなっていたからだ。首には、腸にたまる液を抜くための管も付いていた。点滴や腸液を抜く作業、入浴などのため、週に3回小林さんが通ってきた。 洗濯や食事の支度には、母親の瀬尾紀美子さんが来てくれた。歩美さんは腸液を抜く管をひきずりながら、掃除などをしていた。 夕食は、家族で食卓を囲んだ。ものをのみ込めない歩美さんも、味わった食べ物をそっと吐き出しながら「このお肉おいしい」などと喜んだ。 外出の時は管を洋服で隠した。休日におしゃれをして、銀座や日本橋に家族で買い物に出かけたこともある。そんな歩美さんの姿に愛梨ちゃんは「普通の人みたい」とはしゃいだ。小林さんが管を扱っているところに娘が来ると、「愛梨は向こうに行ってて」と遠ざけた。娘の前では、きれいな母親でいたかった。 がんの痛みは張り薬で抑えていた。在宅ホスピス医の川越厚(こう)さんが墨田区の診療所から週1回往診し、小林さんが痛み止めの量を調節した。12月になると、だるくて起き上がるのに苦労する日もあり、愛梨ちゃんと過ごす時間は少しずつ短くなっていった。 入院はイヤ、最期まで一緒 末期がんの鈴木歩美さんは05年9月、東京都中央区の自宅でホスピスケアを受けながら、家族と暮らし始めた。だが、体調は徐々に悪くなっていった。 「入院するのはイヤです。すぐに取り換えて!」 歩美さんは自宅から駆け込んだ癌研有明病院(東京都江東区)で、医師に懇願した。 05年12月22日。腸にたまる液を抜くため首から体内に入れていた管が破損した。医師は麻酔をして管を交換しようと、入院を勧めた。だが、歩美さんは麻酔なしで新しい管を挿し直す痛みに耐えた。 翌日から茨城県の親類宅で家族や親類とクリスマスを過ごす予定だった。病院に付き添った父親の瀬尾儀市さんは「もう人生を1日も無駄にできない。家族と一緒にいたいんだろう」と思った。 トラブルは他にもあった。腸液を吸い出すポンプの不調に腹痛、吐き気、全身のむくみ……。訪問看護師や医師が、24時間態勢で支えた。 歩美さんは今年1月7日から3日間、夫の正治さん、娘の愛梨ちゃんと3人で栃木県の鬼怒川温泉に行った。露天ぶろ付きの部屋に泊まり、気兼ねなく温泉を楽しんだ。 旅行から帰ると、目に見えて体力が落ちた。ふらついて歩けず、室内でも車いすを使った。正治さんに背負われてトイレに行くこともあった。全身の痛みも増し、意識がもうろうとするようになった。 1月17日夕、正治さん、愛梨ちゃん、両親に見守られ、歩美さんは息を引き取った。39歳。入院時に寄せられた千羽鶴があふれる棺(ひつぎ)の中で、ほほえんでいるようだった。 4年前、癌研病院に入院した日に始めた日記。最初のページに、こう記されている。 「あきらめてはいけない! 皆がついてくれている」 その言葉通り、1日でも長く生きようとした歩美さんを、家族はつききりで見守った。正治さんは言う。 「最初は愛梨の幼稚園卒業までも遠い目標に見えたけど、小1まで頑張ることができた。在宅ケアで普通の生活に戻れてよかった。周りからは『大変でしょう』と言われましたが、全然大変ではなかった。私たちは、歩美の世話をしたかったのだから。やるべきことはやり尽くして、後悔はありません」 |
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がん 情報編
早期発見へ、主婦も検診を
「患者を生きる 夫婦」で紹介した佐藤茂男さん(68)夫妻のケースでは、がんの発見の早さや、がんの見つけやすさによる明暗が分かれた。佐藤さんは会社の健康診断を毎年受け、人間ドックをきっかけに直腸がんが早期に発見された。一方、妻の和恵さんは定期的な健診は受けておらず、10年近く腎臓病を患っていたこともあって体調の変化を見過ごした。腎臓がんが見つかった時はすでに末期。そのことを佐藤さんは今も悔やんでいるという。 労働安全衛生法は事業所に健診を義務づけており、会社員や公務員は受診しやすい。一方で、和恵さんのような専業主婦の健診受診率は低く、04年の国民生活基礎調査では、会社員の75.3%に対し47.9%にとどまっている。 一部の企業の健康保険組合は、社員の配偶者にも健診を実施している。そうした制度がない場合は、主婦も自営業者らと同様、地元の自治体の健診を活用するといい。「40歳以上」などの条件はあるが、基本的な項目は無料で受けられることが多い。 がん検診も一定の年齢以上を対象に、自治体が無料か一部有料で実施。主な対象部位は大腸、胃、肺、子宮、乳房などだ。 ただ、腎臓がんを対象にした検診はない。国立がんセンターによると、腎臓がんの約2割は和恵さんのように、骨などに転移した腫瘍(しゅよう)がまず見つかり、精密検査の結果、腎臓が原発巣だと診断されるという。超音波検査やCT(コンピューター断層撮影)、MRI(磁気共鳴断層撮影)検査を受ければ、早期発見の可能性は高まる。 生命保険や損害保険会社、クレジットカード会社の中には、提携する病院で人間ドックを安く受けられるサービスを提供しているところもある。サービスの詳しい内容は、各社のホームページで紹介されている。最近は、自宅で尿や血液、便などを採取し、検査機関に送る郵送健診(在宅健診)も増えている。 もちろん、費用を気にしなければ、年齢などと無関係に病院が実施している人間ドックを受けられる。たとえば癌(がん)研有明病院(東京都江東区)の「成人コース」の場合、内視鏡、便潜血、腹部超音波検査などがセットで6万円。月、火、木曜日に実施している。同じ内容と料金で、第一、第三、第五土曜日には「ビジネスコース」がある。 ![]() ●記者のひとこと もっと早く気づいていれば――。がんが見つかり、末期だと告げられたら、誰もがそう思うだろう。佐藤さんの取材では、検診を受け、がんを早期に発見、治療することの大事さを痛感した。だが、がん検診の受診率は全体的に低い。比較的高い肺がんや大腸がんでさえ18〜23%前後。厚生労働省の調査では、検診に行かない理由の上位は「時間がない」。夜間や休日にも受診できるようにするなどの工夫が必要だろう。 (文・前田育穂)
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がん 夫婦:上
亡き妻が教えてくれた
2500人ものがん患者や家族らが、全国から東京・渋谷に集まった。3月19日、NHKホールで開かれた「第2回がん患者大集会」。日本のがん医療のあり方を患者の立場から話し合おうと、開会前のロビーは熱気にあふれていた。 茨城県常陸太田市から来た佐藤茂男さん(68)が、記録係として参加者にビデオを向けていた。知り合いから声をかけられるたび笑顔で駆け寄る。1年前に直腸がんの手術を受けた患者の1人。いまは患者と家族の会のメンバーとして、ほかの患者や家族、医療関係者への情報発信に携わっている。 ■
自らのがんに気づいたのは、人間ドックがきっかけだった。 大手電機メーカーの元社員。発電所や製鉄所の大型モーターの検査技師として44年間働き、97年に定年退職した後も嘱託で勤め続けた。04年12月、会社の診療所の人間ドックを受けたところ、腸の便潜血検査で「陽性」が出た。 健康には自信があった。職場で重い電線を持つことが多かったから、腰痛防止のために腹筋、背筋運動を欠かさなかった。ジョギングも30代後半から続け、真冬でも出張先でも、毎晩10〜15キロを走っていた。 それだけに告知はショックだった。05年1月、茨城県日立市の個人病院で、精密検査の内視鏡写真を見ながら医師に言われた。「これくらい大きくなると、ちょっと……。私の手には負えないので、総合病院に紹介状を書きます」 直径3センチ大のポリープが、肛門(こうもん)から10センチほど離れた直腸の壁に付いていた。 がんなのか。直腸がんなら人工肛門になるのか。だとしたら、生活はどう変わるのか……。人工肛門をつけていた親類が、漏れやにおいをいつも気にしていたことを思い出した。 紹介された地元の総合病院で手術を受けていいのだろうか。技術者として「腕一本の世界」で生きてきた佐藤さんは、「この人なら任せられる」という医師に手術を頼みたかった。 ■
夜、ひとり自宅のパソコンに向かい、インターネットで「直腸がん」を検索してみた。数万件の情報がヒットした。「直腸がんとは」「手術法」「効果のある漢方薬」……。一般的な情報ばかり。どの病院の、どの医師の技術が高いのか。欲しい情報は見つからない。 窓の外が白み始めたころ、ある新聞記事を見つけた。東京都立駒込病院で直腸がんの手術を受けた患者の話。直径6センチの腫瘍(しゅよう)があったが、肛門の温存手術を受けて職場復帰する姿が書かれていた。 直腸と肛門の境から腫瘍が2センチ以上離れていれば、がんの広がり方次第で肛門を残しても再発のおそれは少ないという。「人工肛門はつけなくて大丈夫です」。森武生院長のコメントが心強かった。 ■
数日後、精密検査を受けた日立市内の個人病院を再び訪ね、紹介状を都立駒込病院の森院長あてに書き直してもらった。院長じきじきの診察は、1カ月後にかなった。人工肛門は必要なく、ポリープは内視鏡で取れると診断された。4月に入院。1時間半かけて直腸から取ったポリープの中に、やはりがんがあった。早期だった。 「早く見つかって本当に良かった。妻が助けてくれたんだろうと思います」 自宅の居間に、妻和恵さんの遺影が飾られている。9年前、仕事人間だった佐藤さんの定年を目前に、腎臓がんが見つかった。佐藤さんはつきっきりで闘病を支えたが手遅れで、9カ月後に亡くなった。 もっと早く気づいていれば――。妻との闘病をきっかけに、佐藤さんの第二の人生は、がんと切っても切れないものになった。 茨城県常陸太田市の佐藤茂男さん(68)は、大型機械のモーターの検査技師として44年間、大手電機メーカーに勤めた。国内なら富山や群馬の水力発電所、海外なら韓国や台湾、インドネシアの製鉄所と年の3分の1は出張で、家のことはすべて妻の和恵さん任せだった。 定年後は一緒に旅行を楽しもう。それが妻への恩返しであり、夫婦の夢だった。 その定年まで半年足らずとなった97年春。和恵さんの右胸の鎖骨周辺に2センチほどの赤い斑点が現れた。ズキズキと痛む。近所の整形外科に連れていくと「炎症です。心配いりません」と言われた。 だが、斑点は次第に大きくなる。不安になり、車で2時間ほどかけて大学病院の整形外科に行った。「骨髄炎の疑い」と診断され、通院して湿布を張ったり、抗生物質を飲んだりした。それでも痛みは引かない。医師に「腫れた部分を切った方がよい」と手術を勧められた。 佐藤さんの夏休みを待ち、和恵さんは8月に入院。患部を切開して初めて、医師は腫れの原因が腫瘍(しゅよう)だったことを知った。 手術後、佐藤さんは医師に呼ばれた。「悪性の腫瘍が鎖骨周辺に広がっています。奥様にはご主人から話して下さい」。がん? 炎症ではなく? 青天のへきれきだった。「私には無理です。先生から説明して下さい」 約1週間後、佐藤さん夫婦と長男は、医師に診察室に呼ばれた。「実は、炎症ではなくがんなんです。だんなさんから聞きましたね。土浦市の協同病院によい医師がいるので、紹介します」 唐突な告知だった。「あなた、知ってたの?」と和恵さん。佐藤さんは「いや、先生から説明してもらおうと思って……」と言葉を濁した。「そうだったかな」と医師。気まずい沈黙が流れた。 しばらくして、和恵さんが取りなすように口を開いた。「その病院に行くしかないでしょう。もう帰りましょうよ」。3人は無言で診察室を後にした。 当時、和恵さんは61歳。10年ほど前から手足がむくみがちで、日立市内の総合病院の内科にずっと通院を続けていた。「腎機能に障害がある」と診断されていた。 鎖骨の腫瘍は、その腎臓に生じたがんの転移だったことを、佐藤さんは後に知る。 佐藤茂男さん(68)は大手電機メーカーの元検査技師。仕事一筋に生きてきたが、定年目前の97年、妻和恵さんの鎖骨にがんが見つかった。 茨城県の土浦協同病院に和恵さんが転院したのは、8月21日だった。 「鎖骨の腫瘍(しゅよう)は転移したもので、原発は腎臓です。かなり大きいので、すぐ切りましょう」。整形外科部長の磯邉(いそべ)靖医師に言われた。精密検査で、右の腎臓に10センチ大の腫瘍が見つかった。腎臓近くのリンパ節にも転移していた。 9月12日に手術。右の腎臓を摘出し、前回の手術で取りきれなかった鎖骨の腫瘍も切除した。これで何とかなる。佐藤さんはそう思った。 だが、10日ほどたつと足がもたつき始めた。検査すると、心臓の後ろの胸椎(きょうつい)にも腫瘍が転移していて、脊髄(せきずい)に向かって伸びていた。取りきるのは難しい。しかし、放置すれば脊髄が腫瘍に囲まれ、下半身まひになる。再び手術し、脊髄が腫瘍に圧迫されないように処置した。 佐藤さんは、9月末の定年の日まで有給休暇を取った。朝7時から夜9時までそばにいた。和恵さんが夜になるとさびしがるため個室に移り、24時間付き添った。病室のソファをベッドに並べて手すりを外し、手を握って添い寝した。「いいわね」と看護師に言われ、和恵さんは照れた。 11月、「お正月は自宅で楽しんでください」と磯邉医師に勧められた。治療には抗がん剤も放射線も効きにくく、腎臓がんに使われるインターフェロンの注射が主だったからだ。佐藤さんは注射の打ち方をはじめ入浴や排泄(はいせつ)時の介助を学び、自宅のトイレや浴室に手すりも備えた。 家ではゆったり時を過ごした。昼ごろ起きて一緒に入浴し、縁側に面した部屋で西日を浴びながら、佐藤さんの好きなシューベルトを聴く。思い描いていた定年後の生活に少し近づいた気がした。 「幸せってこういうことなのかしらね。今まで気づかなかったね」。和恵さんは漏らした。 年が明けた2月のある日、和恵さんは夜まで排尿がなかった。医師に電話すると「すぐ来て下さい」と言われ、そのまま病院に戻った。がんが脊髄に転移し、下半身はいつの間にか尿意が感じられないほどまひしていた。(下につづく) (文・前田育穂)
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がん 夫婦:下
最後の会話で伝え合う「感謝」
佐藤茂男さん(68)は、97年夏に腎臓がんが見つかった妻和恵さんをつきっきりで支えた。だが3度の手術にもかかわらず、がんは転移して脊髄(せきずい)にも及んだ。 「もう、あまり長くないかもしれません」 98年4月初めの朝、和恵さんは病室に来た主治医に告げられた。佐藤さんは屋上で洗濯物を干していた。部屋に戻ってから、和恵さんからその言葉を聞かされた。 信じたくなかった。だが、避けられないその日が近づいているのなら、せめて納得のいく形で迎えさせてあげたい。思い切って切り出した。 「話をしようか、お母さん。言い残すことはないか」 家族でつきあいのある牧師のいる教会で葬儀をあげること、横長の洋風の墓石にしようと考えていることなどを伝えると、和恵さんは、ほほえんでうなずいた。そして「私名義の預金通帳を見せて」と頼んだ。 家から持ってきていた数冊の通帳を渡すと、ページを繰ってじっと見入った。家計をやりくりし、弁当店などのパートでためたお金が、手つかずで残っていた。 和恵さんが言った。 「あなたが先に死ぬとばかり思っていたのに、24時間看病してもらって、下の世話もしてもらうなんて、考えもしなかった。感謝しています。私は幸せ者ですよ」 佐藤さんは「私こそ、私と子どもたちをここまで引っ張ってきてくれたお母さんには感謝しきれないほど感謝しているよ」と繰り返した。 それが、最後の会話らしい会話になった。 まもなく和恵さんの意識レベルは徐々に低下。がんが脳に転移すると、目を閉じたままけいれんするようになった。最初は手だけだったが、日に日に全身に広がった。 佐藤さんは付き添いながら、けいれんの回数をメモした。18日朝は1時間に3回程度。次第に強く、長くなり、20日夜には1時間に10回ほどに増え、連続するようになった。見ているのがつらかった。 21日午前1時、永眠。夜明け前、家に連れ帰った。部屋に横たえて顔を見ていると、涙が止まらなかった。 1時間ほどたち、ふと我に返って台所に立った。やかんに水を注ぎ、コンロにかける。無意識に、和恵さんにお茶を入れようとしている自分がいた。 茨城県の佐藤茂男さん(68)は98年4月、妻和恵さんをがんで失う。9カ月付き添った佐藤さんは、自宅に戻った妻を前に泣いた。 和恵さんが亡くなった後、佐藤さんは何をしても現実感がもてなくなった。 気を紛らわせようとジョギングをすれば、一人で外国に迷い込んだような心細い気持ちになる。行きつけのすし屋で酒を飲んでも気は晴れない。何をしていてもむなしく、寂しい。気晴らしのために電車で遠出する時は、今まで乗ったことのないグリーン車に乗った。気づけば、生活費も含めて半年間で150万円近くを使っていた。 10月のある朝、がん患者と家族が体験や思いを語り合う「どんぐりの会」(椚計子<くぬぎかずこ>会長)を新聞で知った。「自分の気持ちを受け止めてくれる人がいるかも知れない」。すがるような思いで電話した。 誘われて参加した集まりには、様々な人がいた。若くして夫を失い、懸命に子どもを育てている母親。がんが見つかってから配偶者に離婚を迫られた人……。つらいのは自分だけではなかった。 「もっとがんについて知りたい」。遺族だけでなく、患者の集まりにも出るようになった。毎月の定例会や春秋のレクリエーションに参加するうち、2年が過ぎた。気づくと、仲間と冗談を言いあい、笑っている自分がいた。 昨年、直腸がんが見つかったときも仲間が相談に乗ってくれた。東京都立駒込病院での手術を決めたのも、インターネットの情報だけでなく仲間の助言があったからだ。会に入っていなければ、病院を選ぼうとさえ考えなかったかもしれない。 現在は近くに住む娘夫婦の家に週数回通い、3人の孫娘のベビーシッターをしている。幼い孫たちを見ていると、和恵さんの命が、新しい命につながっていると感じる。ギターの練習に通ったり、市のソフトボール協会の役員を務めたりもしている。 どんぐりの会の活動として、和恵さんをみとった経験も語っている。先月は、終末期のケアを学んでいる看護学生90人を前に講演した。 「自分の経験が役立つなら、いくらでもお手伝いしたい。妻もきっと、そう望んでいると思います」。佐藤さんは今、そう言える。 (文・前田育穂)
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がん 井上怜奈さんの選択:上
父奪った病、自分も
米国籍のフィギュアスケート選手、井上怜奈(れな)さん(29)=写真、戸村登撮影=と、公私ともにパートナーのジョン・ボルドウィンさん(32)。「お互いになくてはならない存在」。怜奈さんがジョンさんを見て言う。 千葉県松戸市の実家を離れ、早大に籍を置いたまま米国にスケート修業に来たのが96年。その約2年後の98年11月、22歳だった怜奈さんは、肺がんを告知された。 1センチほどの悪性腫瘍(しゅよう)。医師から二つの選択肢を示された。 第一は、肺の切除手術。だが医師は、怜奈さんが15歳のときから五輪に2度出場しているフィギュア選手と知り、抗がん剤と放射線を併用する治療も示した。 肺を切ると、選手として復帰するまでに長い時間がかかる。一方で、抗がん剤は実際に投与してみないと効果がわからない。即断できなかった。 眠れぬ夜を過ごした。やがて父雅彦さんから聞いた言葉を思い出した。 「怜奈を自分の手で一人前にしたいけど、お父さんには時間がない。泣こうがわめこうが、お前に米国に行ってもらう」 父も肺がんだった。怜奈さんが19歳のとき、「余命1年」と知った父から命じられたのが、米国での暮らし。スケート中心の毎日で学校生活になじめなくなり、人付き合いが苦手になった一人娘に、自立してほしいとの願いだった。 「この試練を自分一人で乗り越えなければ、米国に来た意味がない」 選手生活を続けたいと、肺がんの治療も切らない方法に賭けた。 母玲子さん(54)にがんを告げた国際電話で「そっちに行こうか」と聞かれ、答えた。「今、お母さんが来たら駄目になる。怜奈が来てというまで、絶対に来ないで」 一人で病と闘う決意だった。 「腫瘍(しゅよう)の大きさは1センチちょっと。リンパ節にもほかの臓器にも転移していない。君はラッキーだ」 フィギュアスケート選手の井上怜奈(れな)さん(29)が米国で肺がんを告知されたのは、98年11月。スケート関係者の家にホームステイしながら、リンクに通っていた頃だった。 異変は、秋になったころから始まっていた。せきが止まらない。いつもだるい。「肺炎かな」「年のせいじゃない」。そんな冗談をスケート仲間と交わしていた。米国人の友人の父親が医師で、勧められて近くの病院を受診した。 ■
「肺の悪性腫瘍です」。精密検査の結果を告げられた瞬間、45歳で亡くなった父雅彦さんが、脳裏によみがえった。同じ肺がんで亡くなったのが前年の2月。その悲しみから、ようやく立ち直れそうな気がしていたときだった。「なんでこのタイミングで、しかも同じ肺がんに……」。ぼうぜんとした。日本にいた母玲子さん(54)に電話した。「怜奈もそのうち、お母さんのことがわからなくなるかもしれない」と泣いた。父は最後の数週間、がんが脳に転移して、家族の顔もわからなかった。 だが、涙を流したのはこのときだけだった。「米国で自立してほしい」といった父の遺志を思い、選手としての再起を信じて、カリフォルニア州立大ロサンゼルス校(UCLA)の病院に通い始めた。 1週間に3日、1日あたり2時間かけて抗がん剤(マイトマイシン、シスプラチンなど)を点滴。その後2週間休み、翌週にまた繰り返す治療だった。 「最近ちょっと調子が悪いの」。コーチにも友人にもそう言って、肺がんであることは黙っていた。父の闘病を見守った経験から、がんであることを周囲に知られると、気を使われて普通に暮らせなくなると思った。それが嫌だった。 ■
闘病中も練習は続けるつもりでいた。だが抗がん剤治療が始まると、副作用による激しい倦怠(けんたい)感に襲われた。一日の大半は起きていられず、スケートどころではない。頭のてっぺんから足の裏まで湿疹や水疱(すいほう)が出て、かさぶたができた。一人で家にこもっていると、不安にのみ込まれそうになった。あの技も、この技も、できなくなっているんじゃないか。もうスケートなんてできないんじゃないか……。母に毎日のように電話した。 母からは、何十冊もの文庫本が送られてきた。父の好きだった池波正太郎の「剣客商売」と「鬼平犯科帳」。小学生からリンクと学校を往復するだけだったから、活字の世界は新鮮だった。本を読んでいる間だけは、病気のことを忘れられた。 幸運なことに、抗がん剤は劇的に効いた。月に1度検査するたび、腫瘍は小さくなっていた。放射線を当てる範囲も徐々に狭まる。治療から半年後、画像から腫瘍の影は消えた。 ■
ところが、いったん落ちた体力は、なかなか元に戻らない。「もうスケートをしてもいいかな」と思えるようになるまで、さらに半年間が必要だった。99年11月、1年ぶりのリンク。以前のように滑り出すと、酸欠状態になって頭が痛くなり、5分も氷の上にいられなかった。 2日目は10分、次の週は30分と、滑っていられる時間は少しずつ延びた。だが、頭の中には、自分が一番いい状態だったときのイメージが鮮明にあった。 「何でこんな簡単なことができないんだろう。もう一生、元の体力に戻れないんじゃないか」 もどかしさに、いらだちが募った。(下につづく) (文・岡崎明子)
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がん 井上怜奈さんの選択:下
再発の恐怖、消す滑走
スケート修業に来た米国で、肺がんを告知されて1年たっていた。井上怜奈(れな)さん(29)がパートナーのジョン・ボルドウィンさん(32)と出会ったのは99年末ごろ。カリフォルニア州立大ロサンゼルス校(UCLA)の病院で抗がん剤と放射線治療を終え、リンクに戻った頃だった。 最初は5分で呼吸が続かなくなったが、1カ月も練習すると、シングルジャンプなら飛べるようになった。「これは、めざましい進歩なんじゃないか」。そう考えられるようになり、いらだちは消えていった。 ■
スケートコーチであるジョンさんの父親に頼まれ、00年、ジョンさんと正式にペアを組んだ。怜奈さんは身長149センチ。175センチと米国人男性としては大柄でないジョンさんのパートナーにぴったりだった。ジョンさんにも父親にもがんのことは話さず、2人も怜奈さんが病み上がりとは気づかなかった。どちらも故障を抱えて満足な練習ができないまま臨んだ01年の全米選手権で、11位と惨敗した。 「本気で練習したら、どこまでいけるんだろう」。それまで集中力に欠けていたジョンさんが、人が変わったように練習し始めた。 怜奈さんの練習にも熱が入った。抗がん剤で腫瘍(しゅよう)が消えたからといって、安心できないことは知っていた。再発のサインは見逃すまいと体調の変化には注意し、風邪をひいてもすぐ病院に行った。だが、スケートに没頭していることで、ふだんは再発の恐怖を忘れていた。 ■
ジョンさんと出会う前、怜奈さんは一度だけ本気でスケート靴を脱ごうと思ったことがある。97年2月、父雅彦さんが肺がんで亡くなったときだ。父は千葉県松戸市から東京都内の会社に車で通勤し、仕事後は毎晩のように同市内のリンクに駆けつけ、練習を見守った。母玲子さん(54)があきれるほど仲のいい父娘だった。 怜奈さんがリレハンメル五輪に出場した94年、会社の健康診断で肺に影が見つかった。たばこを吸わないこともありそのままにしていたが、翌年もまた影が見つかった。 手術を受けると想像以上にがんは大きく、肺の3分の2を切除した。周囲のリンパ節3個にも転移しており、一つは取りきれなかった。転移、再発して4カ月後に再入院。その後入退院を繰り返した。 97年1月、全日本選手権のため3カ月ぶりに米国から帰国した怜奈さんは、長野市の会場に駆けつけてくれた父を見て驚いた。やせ細った体。むくんだ顔。変わり果てた姿に、「スケートなんてどうでもいい」と思った。 試合後、母と交代で病院に泊まり込んだ。がんは全身に転移し、どんなに体の向きを変えても痛がった。「苦しんでも報われない。早く楽になってほしい」と願った。 亡きがらを前に思った。「遅かれ早かれ、人間の行き着く先はここなんだ」。何もかもする気がなくなった。経済的な理由からも、スケートはやめようと思った。だが母のもとに戻ることは、父の遺志に背くことになる。そう考え、米国のリンクに戻った。 ■
一人でがんと闘うと決めたのも、父の死が大きく影響した。どうせいつか死ぬのなら、その日まで少しでも前向きに生きたい。そう思うようになった。「自立」への自信も芽生えたのかもしれない。昨年9月、年1回の定期検査を前に、闘病体験を初めてジョンさんに話した。その後、記者会見でも、がんだったことを公表した。「大変でしたね」とよく聞かれる。 「でも29年間生きてきて、父が亡くなった以上につらいことってないんです。それに病気を経験したからこそ、学べたことがたくさんある」(おわり) (文・岡崎明子)
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