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この私が書くまでもないと思われる作曲家はいくらでもいるが、その中でもこの人物程私の筆から離れた場所にいる人物はいないだろう。彼の名や人物像や楽曲や生年月日やケッヘル番号やらは、今更語るまでもない周知の「常識」となっているため、ここでは私個人の勝手な見解を述べさせていただこうと思う。 モーツァルト(1756〜1791)の音楽を一言で表そうとすれば、それは「現代音楽的古典音楽」である。古典派的な音楽内容に度々顔を出す意外性を持った音々は、後のプロコフィエフを思わせることがある。もちろんプロコフィエフの音楽的基盤は古典派音楽ではない。彼の音楽は形式が古典的なだけで、音楽内容は近代的なものであるが、その「近代的」な内容に顔を出す「現代的」なものが、モーツァルトに共通する意外性なのだ。 モーツァルトの音楽はその意外性により、度々無調を感じさせる。有名な例で言うと、交響曲第四十番K.550の第四楽章である。主要動機の脈は失っていないにしろ、125小節から132小節までに現れる音列は、後の12音技法に限りなく近いものだ。この8小節の間に、全12音のうちのG音を除いた11音が奏される(装飾音をのぞく)。As(Gis)、B、Des(Cis)、Fの音に重複があるが、そういった論理的分析を抜きにしても、幅の広い跳躍など、音楽を聴く限りでは無調である。しかもこの不思議な楽曲の初演が、モーツァルトとの対立で有名なサリエリによるものであるとされているのも、おもしろい。さらに、そのサリエリの教え子であるリストが、晩年に完全な無調の世界へと足を踏み入れたのも、かなり興味深い。 そして、モーツァルトを語る上で欠くことのできないのが、彼の書いたオペラである。彼の最後のオペラである「魔笛」は、作曲者がモーツァルトであると知らずに聴いたら、非常に現代音楽的に聴く事ができるであろう。その秘密は、オーケストラの奏でる非常に美しい旋律と、無の中に響くあやしげな「語り」との対比、そして何よりそのストーリーに隠されている。第二幕の、老婆がパパゲーノに向かって「私の年頃の恋人の名はパパゲーノである」と語り、大笑いしていたパパゲーノが一気に青ざめ、雷鳴が轟くあの場面など、何回聴いても鳥肌が立つほどぞっとする。 モーツァルトの音楽は世界各国で非常な人気があり、誰でも名前を知っている音楽家であるが、その魅力とは一体どこにあるのだろうか? 恥ずかしいことに、私はあまりモーツァルトの音楽を聴いた事がない。どの曲も似たりよったりで、退屈してしまうのだ。しかし、その音楽は他の作曲家の音楽とは一線を画しており、似たような音楽を書く作曲家を私は知らない。彼の音楽がどれも同じように聴こえてしまうのは、モーツァルトの独自の言語があるからであり、世界のモーツァルト好きはその独自の言語を好んでいるのだろうか。私が好んで聴く彼の曲は上にあげた「魔笛」ぐらいで、やはりそんな私の筆は、相当モーツァルトから離れているようだ。きっと、モーツァルトは天才なのだろう。 <楽曲解説>
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